Angel Sugar

「空の監禁、僕らの奔走」 第6章

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「わ……私の恋人がその機に乗ってるんです。本当にハイジャックされたのですかっ!」
 リーチはあまりの事態に思わず叫んでいた。
 では空港で感じたなんとも言えない嫌な感覚は、そのことを指していたのだろうか。あのときすれ違った男たちが犯人だったと言うのだろうか。今から後悔しても遅いのだろうが、リーチには未来を見通す力もないし、何かをしでかそうとしている男たちの企みを読みとることができる力もない。いつだって起こってしまった後で分かることが多いのだ。
「オーキの恋人が乗っているのか?」
 トーマスは両手を上げて驚いていた。
「そう……そうなんです。間違いないんでしょうか?」
「ああ。国防省からの連絡だ。今からF16が飛び立って、そのジャンボ機の様子を偵察に行くんだよ。もっとも私たちは何もできないし、犯人がこちらに気付いたらすぐに追い払われるだろうが。そうなったら距離を取って追いかけることになるだろう」
 確かに戦闘機が二機、慌ただしく装備の点検を行っていて、そこへ向かって二人のパイロットが走っていた。
『リーチ……どうしよう』
 トシがオロオロとした口調で聞いてきた。けれどリーチもどういう行動を取ればいいのか分からない。名執達が乗ったジャンボ機は空の彼方にいて、ここからではどういう状況になっているのか、犯人達が何を目的にしてハイジャックしたのかも分からない。ただ、リーチが日本へこのまま帰ったとしても、名執達の出迎えはないことだけは確実だった。
「……私もそのジャンボ機を見たいです。連れて行ってください」
「オーキ、それは無理だ」
 苦笑しながらトーマスは言う。
「どうしても見に行きたいんです」
「君はアメリカ空軍パイロットでもなければ、日本の航空自衛隊のパイロットでもない。だろう?」
「ええ……それは分かっているんですが……」
 リーチは未だかつて戦闘機に乗せてもらったこともないし、乗る機会に恵まれたこともない。時々空を飛ぶ自衛隊の戦闘機を見かけるくらいだ。確かに無謀なことを頼んでいることを自覚していた。けれど、だからといって一人で日本に帰る気も無かった。
「乗るための訓練を受けたこともないだろう?」
「はい」
「それじゃあ、空に上がった瞬間、たとえオーキでも気を失っているよ」
「気を失ったら殴ってください」
「今の戦闘機は一人乗りなんだよ。……ああ、タンデムの機がないとは言わないが……だから殴ることもできないね。コックピットが離れているから」
 チラリと基地の建物を眺めながら、トーマスは顎を撫でていた。
「あるなら乗せて連れて行ってください。トーマスさんには絶対にご迷惑はかけません。気を失ったら気を失ったで放置してもらっていていいです」
「手続上ね……」
「私は荷物です。こっそりC-130に乗せていただくのも荷物としての扱いでしたよね?隠岐利一は人として来た訳じゃない。荷物です。そうでしょう?」
 トーマスはまだ顎を撫でてリーチを見下ろしていた。悩んでいる様子だ。もう少し押せば何とかなるかもしれない。
「私の大切な恋人が人質に取られているんです。この気持ちを分かってもらえませんか?お願いします」
 リーチが頭を下げて必死に頼むと、ようやくトーマスが口を開いた。
「治療中の虫歯があるかい?」
「歯は健康です。詰めている歯もありません。ありがたいことに虫歯がないんです」
「最近手術を受けて、まだ傷口が塞がっていない……というものはあるか?」
「え……え……と。盲腸を患いましたが、今はもう傷口も塞がっています」
 アメリカに来た当初はまだ肩の傷や盲腸の傷も中途半端だったが、今はもう治っている。
「……完全に塞がっていないと、空に上がった瞬間、急激な気圧の変化で傷口が破裂する恐れがある。コックピットで吐くのはまだ許せても、血をぶちまけられて死亡されると、どうしようもない問題をうちが抱えることになる。本当に大丈夫だろうね?」
 訝しげな目を向けるトーマスに、リーチは笑顔で頷いた。
「そこまで言うなら……仕方ないな。私がトムキャットを飛ばすことにする。上官に話してくるからちょっと待っていてくれ。ただし、戦闘機に乗るための装備は何十キロもある。その小さな身体で全部身に付けて、タラップまで歩くことができるというのが最低条件だ。本来は最低一週間は乗るための訓練を受けてもらわないと、Gに耐えられないからね。気を失っても別に構わないが、オーキの気分が悪くなったと感じたらすぐに下ろす。私が駄目だと思ったときも同様だ。これに関して文句は受け付けない」
 ため息をつきつつも、トーマスは苦笑していた。
「ありがとうございます。一生、恩に着ます……」
「ヒューイっ!」
 ジープに乗っていた男にトーマスは声をかけた。ヒューイと呼ばれた男はすぐさまジープに乗ってこちらにやってきた。
「何でしょう、大佐」
「彼に戦闘機用の装備を整えて、五番ハンガーに連れてきて欲しいんだ。確かC整備を終えたトムキャットが一機、五番ハンガーにあるはずなんだ。そいつを飛ばす許可をもらいに私は一旦基地に戻ってくる。」
「かしこまりました」
 ヒューイは特に怪しむ顔を見せず、ジープの助手席に乗るよう、リーチを促した。リーチは言われるまま車に乗り込んだ。
『リーチ、本気で戦闘機に乗るの?僕だって心配だけど、そういうの経験がないし……本当に大丈夫なの?』
『仕方ないだろ。ここでオロオロして待っているのも俺の性にあわねえし、かといって俺たちだけで日本に戻るのか?で、テレビに張り付いて、やっぱりオロオロするってか。そういうの勘弁しろよ……』
 ヒューイは無言で、こちらに話しかけてくる様子もないため、リーチは心の中でトシと話をしていた。確かにトシの言うとおり、ジャンボが飛んでいるところを眺めに行ったところで、好転することなど何もない。分かっていても、居ても立ってもいられないのだ。
『……恭眞達無事なのかな……』
 小さな声でトシは呟いた。
『無事だろう。ていうか、どうやってハイジャックしたんだろうな。日本よりテロに対する警戒が厳しいアメリカだぜ。武器を持ち込むのも簡単にできないだろうし、武器がなけりゃジャンボのハイジャックなんてとてもできないだろ』
 内部からの手引きがあったのか、それとも別な方法で持ち込んだのだろうか。
『要求は出てるのかな?』
『もう少し、トーマスに聞けばよかったな……後で聞くか』
『……僕が心配なのは、テロでジャンボが奪われたら……ってことなんだ。今、ジャンボは海の上を飛んでいるだろうけど、彼らの要求がそれだったら、市街地に向けられるよ。もしくは政府の建物……。だけどそんなところを狙った瞬間、躊躇することなく戦闘機に落とされるはずだよね。だからアラートで戦闘機が飛ぶんでしょ?』
 トシは声を震わせてそう言った。
『……そういう嫌なことを考えるんじゃねえよ。もしそうだったら、俺はどんな手を使ってもとめてやる』
 いま方法など考えられない。高度一万メートル以上を飛ぶ、ジャンボにどうやって乗り込むことができるのだ。けれど、本当に犯人達の目的がそこにあるのなら、リーチは考えられるあらゆる方法で――今は考えられないが――ジャンボに乗り込んでやると心に誓った。
『……リーチ……』
『あーもう、そういう暗いことばっか言うな。俺だって……まだ混乱してるんだ。ハイジャックなんて俺らは殺人課のデカなんだからな。とにかく行ってみるしかないだろ?見に行ってよ、あいつらの乗ったジャンボじゃなかったら、とりあえず安心できる』
 基地を渡る乾いた風を頬に受けながら、リーチは目を閉じた。
 情報が間違っていることを願いながら――。



 アナウンスは機長のものだった。コックピットを開ける気持ちが今のところないのだろう。それは当然と言えば当然のものだった。コックピットを占拠されたら、どういったことになるのか……名執にも分かる。
『君達の要求はなんだ?』
「ちょっとこの空路から離れて飛んで欲しいところがあるだけだ」
 犯人の男が大声で言った。
『テロを目的としているのかね?』
「機長のあんたにはもう俺たちの目的に気付いてるんだろ?この飛行機に何が乗ってるのか……って考えたらすぐに分かるよな」
 犯人はなぜか笑っていた。
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