「空の監禁、僕らの奔走」 第32章
まさかと思いながら、自分が目にしているものが現実ではないのだと、必死に名執は願ったものの、顔にはゴオッという風が吹き上げてくる。
床はすべて開いているわけではない。
けれど、吹き込んでくる風は凄まじく勢いを増して、名執の身体を揺さぶり、痩せた身体を機体から吸い出そうとしていた。
「きゃ……っ」
はしごにしがみついて、名執は必死に耐えた。ここで外へ放り出されたら、死しかない。
もし床がすべて開いたら、どれほど名執が頑張っても、急激な気圧の変化から、外へ放り出されるに違いなかった。
誰か……助けて……っ!
腕がちぎれるほど強くはしごに腕を絡めて、名執は歯を食いしばった。風の勢いで、はしごに引っかけていた足が離れ、空中で頼りなく左右に揺れている。どれほど力を込めても、足を元の位置にはもどせない。あとは腕の力だけで踏ん張るしかなかった。
どのくらいの時間、この状態で耐えられるのか、名執にも分からない。
それでも生きてここから出るためには、この危機を一人で乗り切らなくてはならないのだ。
大丈夫。
私は耐えられる。
今、想像する未来は名執にとって楽しく、明るいものだ。この飛行機が無事に着陸し、リーチとまたいつもの日常を送る。ずっと待っていた抱擁をこの身体に感じ、名執はようやく触れ合える実感を、味わうのだ。
それが叶えられる前に、死など受け入れられるわけなどない。
腕がちぎれようと、私は耐えてみせる。
名執はありったけの力を腕に込め、身体をさらおうとする風に逆らった。
リーチは幾浦と一緒に前へと移動した。アッパーデッキに入る手前で、幾浦を柱の陰に隠れるように指示し、リーチは注意深く移動した。
けれど、犯人達の姿はない。前方から言い争う声が聞こえるものの、コックピットやパイロットレストルームに続く扉は閉められていて、様子が窺えない。
『……リーチ、チャンスかもしれないよ』
他の人には聞こえないのに、トシは小さな声でリーチに言う。
『前でなんだかもめてるみたいだな……。そうだな。今のうちに人質を移動させるか……』
リーチは来た道を戻り、アッパーデッキを出て、幾浦に声をかけた。
「幾浦、なんだか犯人共がもめてるみたいだから、この隙をついて人質を今から移動させようと思ってるんだけど、準備はいいか?」
リーチの言葉に、幾浦はこわばった顔で頷いた。
「貨物室に移動する途中、犯人に出会ったら、撃たれる前に撃てよ。その代わり機体には絶対に穴を開けるな。もっとも躊躇したら最後、トシが泣くことになるんだから、そいつだけは勘弁してくれよ」
「お前は一言余計だ。それより、一瞬くらい、トシと会わせてやろうと思わないか?」
眉間に皺を寄せて、幾浦は不快感をあらわにした表情で言った。
「……今の状態じゃ無理だな。んじゃ、俺は人質を外に出す」
「……お前の態度は、とにかく気に入らないが、今は仕方ない。分かった」
ムッとしている幾浦に背を向けて、リーチはデッキに戻ると、怯えて下を向いている人質に、後ろへ移動するように早口で告げて回った。
「あの……貴方は……日本人なのですか?」
日本人女性が子供を抱きしめながら聞いてきた。安心させるため、日本人には日本語で話しかけたためか、驚きとともに、問わずにいられないのだろう。
「静かに行動してください。今は、速やかに安全な場所に移動してもらわなければならないんです。分かりますね?」
リーチは女性の肩を押しやりながら、次の人質に声をかけて、動ける人間はすべて幾浦へとバトンタッチしていった。けれど中には撃たれて死亡した者、意識不明のまま床に倒れている者も数名見られた。そういった人は、何度か肩を揺さぶって、意識が戻らない場合は諦めることにした。
ハイジャックがあとどのくらい続くのか、この機を奪還するためにあとどれだけ時間がかかるのかが分からない今、意識のない人を引きずっていくわけにはいかない。そう考えて、放置しようとしたが、一旦はデッキを出た客室乗務員の数名が戻ってきて、倒れている自分達の仲間を担ぐと無言で出て行った。
リーチはすべての人質をデッキから出すと、未だに続いている言い争っている声の方へと近づいた。
パイロットレストルームへと続く扉を越えると、コックピットにたどり着くだろう。そこから未だ言い争う声が響いていて、なにやら騒がしい。もしかするとパイロットが犯人ともめているのだろうか。
『リーチどうする?』
『……ここでもめてるのは……ありがたいんだけどよ。場所が場所だからな……』
コックピットを撃たれたら、目も当てられない状況に陥る可能性がある。もっとも犯人達もそれは理解していることであろうから、自分達にとって不利な状況を自ら招くことはないだろう。
『人質を移動させる恭眞にとりあえずついていって、安全を確保してから、戻ってこない?恭眞は前を見てるけど、背後は誰が守るの?』
トシは幾浦が心配なのか、そう言う。
けれど言われてみれば確かに、一理ある。
連れ出した人質を完全に安全な場所に閉じこめたことを確認してから、行動した方がより自分達が動きやすくなるような気がした。
『……そうだな……それがいいかもしれない』
リーチはあっさりとトシの案に同意し、コックピットへと繋がる扉から離れ、デッキから外へと移動した。乗客が移動している背がいくつもみえるのを、リーチは追いかけ、背後について神経を尖らせながら、なかなか進まない列を苛々しながらついていく。
途中、機体が左右に大きく揺れ、何度も明かりが瞬き、その度に恐怖で怯えている乗客は声を上げ、列が乱れる。それを前後で声をかけながら、ようやく貨物室にすべてを移動させた。
不安と疲労で声を出すことすら困難になっている人達を、荷物の上に座らせた。
「どうせ、こういう状況ですから、誰の荷物だからというのはやめましょう。飲める飲料水は飲んで、お腹が空いた人は食べ物を自分で見つけて食べてください。ここにいる間は安全です。絶対に外の通路へは、私か彼が指示するまで出ないでくださいね」
リーチが大声でそう言うと、人々は少しだけ安心した表情で、それぞれに頷いていた。
「おい、名執はどこだ?」
「ええ。一番安全なところにいます。こちらに呼びましょう」
リーチはそう言って、貨物庫の一番奥の床についたバルブを掴み、回転させようとしたが、つい先程、簡単に回せたバルブが、ひどく重く感じることに気づいた。