Angel Sugar

「空の監禁、僕らの奔走」 第16章

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「ご所望のものだ」
 医療キットを手渡された名執はそれを無言で受け取った。けれど大きな犬といった言葉が忘れられずにいる。他の乗客のペットかもしれない。それともやはり幾浦の飼っているアルなのだろうか。
「さあ、こい。お前の言う治療をしてもらおうか。治療が芳しくない場合は、医者とは認めず、その場で殺す」
「分かっています。ですが医者は私一人です。これ以上、患者を増やさないでください。……たとえペットであっても」
 名執はリーダーの顔をじっと見つめたまま、言った。
 これがどれほどの牽制になるのか分からない。けれど名執にできることといえば、悲しいがこの程度だ。
「うろついている大型の犬はお前のペットか?」
「いいえ……っ!」
 いきなり名執は腕を掴まれると、床を引きずられた。
「そんな関心事は二度と持つな。お前はお前の仕事をしろ」
 通路に連れ出された名執は、レストルームからすぐのコックピットに突き飛ばされた。
「そこに転がっているやつら、だれでもいいから、起きるよう治療しろ」
 リーダーの男はそう言い捨てると、部下を一人監視に置いて、去っていった。
 コックピットの中には機長らしい男が四人もいた。一人は腕を押さえて呻いていて、後の三人は倒れている。
「撃たれたのですか?」
 シートの背に凭れて座り込み、俯いている男に声をかけ、傷を抑えている腕にそっと手をかけた。けれど男は名執に触れられたことで驚き、反射的に手を払った。
「痛みましたか?ですが、傷口を見せて頂きたいのです」
 名執は払われた手でもう一度腕を掴んで言った。
「貴方は……?」
「乗客です。名執と言います。専門は心臓外科ですが、大抵の傷は見て差し上げられますので、まず上着を脱いで私に傷口を見せてください。よろしいですか?」
 そう言うと男は、上着を脱がせようとする名執に逆らうことなく従った。男の精悍な顔立ちには明らかに憔悴の色が窺える。
「私は……機長の狩谷といいます。突然彼らが……っく」
 血まみれのシャツを脱がそうとしたところで、狩谷は痛みでまた呻いた。
「まず傷口を綺麗にします。酷く痛むと思いますが、我慢してください」
 ざっと腕についている血糊を拭き取ってから、キットから取り出したガーゼに消毒液を浸して傷口を拭った。
「……う……」
 傷口の周りにあるすでに凝固している血液は拭うことなく、そっとガーゼを押し当てた。見たところ弾は貫通せず内部に残ったままになっているが、太い血管を傷つけている様子はなかった。
「弾は内部に残っていますが、今のところ致命的な傷にはなってません。出血も止まっています」
「申し訳ない……」
「いいえ。本来なら取り出して差し上げたいのですが……」
「いや、他のクルーの状態をみてやってくれ。副長の中路くんが一向に目を覚まさないので心配なんだ」
 足元に蹲るようにして倒れている中路の目を見て脈を取った。
「呼吸は浅いですが、もしかして頭を殴られてはいませんか?」
「分かりません」
「見たところ問題がなさそうですが、拳銃のグリップで頭を強く殴られている場合、脳内出血をしている可能性も否定できません。今は彼を動かさない方がいいでしょう。脳しんとうならいいのですが、それでも目が覚めるまではそっとしておいた方が賢明ですね」
 名執は自分の着ている上着を脱ぎ、タオルを折りたたむようにして長方形の形にすると、中路の頭よりやや下の辺りに敷いて、横向きになっている身体を仰向けにして、身体を伸ばした。
「こちらの方は?」
「交代要員の鈴木と牧野だ。彼らは腹を殴られていたようだ」
 牧野の腹をそっと押さえ、内出血をしていないかどうか確認したが、大丈夫そうだった。けれど意識が混濁しているのか、身体を震わせている。目は瞬きをしているがこちらを見ていない。
「私は医者です。どこか痛みますか?」
 名執がやや大きな声で聞くと、牧野の目が動いた。しばらくすると唇が震えて、「大丈夫です」と言ったが、突然起こった出来事に対してショック状態を起こしていた。
「少し待ってください」
 名執は背後で見張り役をしている男に振り返り、言った。
「先程の部屋にある毛布をこちらに運んでも宜しいですか?」
 男は銃の先を振って、指示する。
 名執はそろそろと立ち上がり、レストルームに向かうと、棚に並べられている毛布を数枚手にとって、コックピットに戻った。その間も見張りの男はコックピットとレストルームを交互にみて、見張っている。見張らなくても逃げ場などないのに……と考えながらも、名執はそのことについて口に出すことはなかった。
「これを……。貴方は今ショック状態を起こしています。内出血など命に関わることにはなっていませんので安心して、暫くは安静に横になっていて下さい」
 牧野は目に涙を溜めて「ありがとうございます」と言い、名執が毛布を掛けるのをじっと見つめていた。最後の一人、鈴木という男は、すでに死後硬直が始まっていて、とても救える状況ではなかった。
「この方は亡くなっていらっしゃいます」
 見張りに言うと、チッと忌々しげに口を鳴らし、名執に言った。
「じゃあ、死体置き場に連れて行くか。あんた、そっちの部屋へぶちこんでくれないか?」
 命を軽視する男を前にして、名執は哀しみと苛立ちを同時に感じた。けれど名執ができることと言えば、理不尽な男の言うことを聞くことだけだ。
「……分かりました」
 名執は自分よりもかなり重い体重の鈴木を抱え、コックピットから引きずり出して、レストルームへと運んだ。



 アルがウロウロとしているのを追いかけるように、犯人らしき男たちが「こら、止まれっ!」「逃げるなっ!」と声が響いてきた。リーチは飛行機の真ん中からやや後方に設置されているキッチンに身を潜ませていた。
『リーチくるよ』
『分かってる。けど……声や足音から二名って分かるけど……同時に二名はきついかもなあ』
『一旦引く?』
『いや。やる。一人を殺す。一人は生かして、犯人が何人いるのか問いつめてやる』
 サバイバルナイフを持って身構えたリーチの目の前の通路を、アルが軽快に走り抜けた。
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