Angel Sugar

「空の監禁、僕らの奔走」 第23章

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「どうしてユキが……」
 リーチは小さな声で呟くように言った。
 これは夢ではないか、目が覚めたら隣に名執が眠っていて、ホッと胸を撫で下ろす、そういう結末があるのではないかという考えが頭を過ぎる。
 けれど何度目を擦っても、夢から覚めることもないし、また、夢ではなかった。
 名執は幾浦に覆い被さるように組み敷かれ、自ら背に手を回している。けれど、その表情は苦痛に耐え、歯を食いしばりながら、幾浦の暴挙に堪えていた。
『何か……何かあるんだよ……だって……』
 トシは混乱している。
 だが、もっと混乱しているのはリーチだ。
 リーチはずっと名執に触れたいのを我慢してきた。名執はついこの間の件で、本人には口にしなかったが、別人にも見えるほど、本当にやせ衰え弱り切っていた。いくらリーチが触れたくても、とても手を出せる体調ではなかったのだ。
 もちろん、今は随分とよくなっている。食事もしっかりリーチが摂らせたし、無理をさせなかったからだ。
 それでももう少し様子を見た方がいい、日本に戻って名執が精神的にも落ち着くまで、手を出さないと、欲望から決心が揺らぎそうになるたびにリーチは自分に駄目だと言い聞かせてきたのだ。それほど、リーチがこの手の中で名執を大切にしていることを、幾浦は知っていたはず。
 その幾浦がどうして名執を犯しているのか、いや、トシという恋人がいながら、何故リーチの恋人に手を出すのか。
「……ぶち殺す……」
 うなり声にも似た低い声でリーチはようやくそれだけ言った。
 確かに幾浦には世話になっていた。いろいろ面倒をかけたこともある。だが、そんなものなど、今のリーチを宥めるものにはなり得ない。
『リーチっ!お願いだから待ってよ。絶対、何か理由があるんだってっ!でなきゃ、あんなこと恭眞がするわけないっ!』
 リーチにはトシの声など聞こえなかった。
 名執と幾浦の姿しか見えない。
 いつもより白い名執の肌は、青ざめていて、眉は不快な行為に顰められている。艶やかな唇は恐れから震え、閉じられた瞳には涙が浮かんでいた。
『ね、リーチ。ここから離れようよ。全部、終わってから理由を聞けばいいじゃないか。僕、僕……見たくないんだっ!』
 俺のユキが……。
 俺がこの手でいつも大切にしているユキが……。
 あんな奴に……。
 握りしめている拳が震え、噛み合わせた歯がギリギリと鳴る。
 機内では二人をはやし立てる声が響き、リーチの怒りのボルテージがますます上がった。
『リーチっ!お願いだから、ここから離れてっ!もう、見ないでっ!』
 名執の唇が、確かに『リーチ』というふうに動いた。
「俺は……許せねえっ!」
 ポケットからスパナを取り出し、枠を取り付けているビスを外す。その間も、トシは後ろで何か叫んでいたが、リーチの頭には名執を幾浦から助け出すことしかなかった。
 すべてのビスを外し終え、振り上げた手を、力一杯電灯の枠に叩き付けると、枠が外れて機内へと落ちた。リーチが幾浦と名執の足元に降り立つと、下敷きにしていた電灯は、通路に砕け散る。
 スキー帽を深々と被り、顔が分からないようにと、マスクと水中眼鏡をしている利一が突然、現れたことで、幾浦と名執が身体を起こして後退り、はやし立てていた犯人たちも不意をつかれ、動かない。
 リーチは犯人たちのことよりも、幾浦に突進し、持っていたスパナを振り上げた。けれど、名執がどうしてか、幾浦を庇うようにしがみつく。
「やめてくださいっ!」
「なんで?どうして幾浦を庇うんだ?」
 リーチがくぐもった声を出すと、名執の目が大きく見開かれ、驚きで唇が半開きになる。幾浦の方も同じように驚愕した面持ちで、リーチを見ていた。
「なんだかよく分からないが、ヒーローになりたい奴が隠れていたか。その男を捕まえろっ!」
 リーダーらしき男の声が響き、飛びかかってきた男をリーチはスパナで殴りつけて倒すと、前後左右から飛びかかってくる男たちを交わして、名執の腕を掴んだ。
「来るんだっ!」
「……え……あ……」
 名執は半ば放心状態で、今の状況を全く把握していない。リーチは仕方なしに、名執の身体を肩に背負い、その間も飛びかかってくる男をスパナで倒しながら、エコノミーに向かって通路を走り出した。
「動く標的を撃つんじゃねえっ!的が外れたらどうするっ!捕まえて、自由を奪ってから、殺すんだっ!」
 犯人が銃を構えたのを、リーダーはそう言って制した。そんな背後から聞こえる声も無視し、リーチはひたすら走って、階段を下り、貨物室の扉を開けて、中に下りると、簡単には開けられないよう、スパナで扉を固定した。
 少しだけホッとしながら、担いでいた名執を下ろす。けれど、名執は真っ青な顔をして、怯えたようにリーチから逃げようとした。
「ユキっ!」
 怒鳴りつけるように声を張り上げ、リーチは名執の腕を掴むと、引き寄せた。
「……その声……その声は……でも……こんなところに……嘘……」
 名執はリーチの腕の中で相変わらず目を見開いている。
「ああ、これのせいか……」
 リーチはマスクと水中眼鏡を外した。
「リーチっ!どっ……どうしてここにいるんですか?どっ……」
 名執は興奮したようにそう言いながら、目から涙を溢れさせた。
「……話せば長くなるんだけど……無事でよかった」
 ほうっと息を吐き出して、リーチは名執を抱きしめたまま、床に座り込んだ。そんなリーチに、名執は今までになく力強くしがみつき、顔を胸に押しつけたまま、泣いていた。
「……後であいつをぶち殺してやるからな……」
 そう、さっきは犯人たちが邪魔をしたから、リーチは幾浦を殺せなかった。けれどチャンスはこれからいくらでもあるだろう。そのチャンスを逃すつもりはない。
「あいつって……?」
 鼻をぐすぐす鳴らしながらも、名執は顔を上げる。
「幾浦」
「えっ?」
「お前、あいつにやられただろうっ!」
 名執に回した手に力を込めて、リーチは怒鳴った。
「ちっ……違うんです。事情があって……」
「どんな事情があっても、俺は許さない……」
『事情があるって言ってるじゃないかっ!』
 トシの声がようやく聞こえたリーチだったが、当然、無視をした。
「リーチ、聞いてください。私は生きて貴方に会いたかったから、私が幾浦さんにお願いしたんです」
 にわかには信じられない名執の言葉に、リーチは貨物庫と機内を繋ぐ扉が激しく叩かれていることに気付かなかった。
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