「空の監禁、僕らの奔走」 第9章
慌てて主導権を切り替えた瞬間、身体に受けた衝撃は並大抵のものではなかった。トシが悲鳴を上げるのも頷ける、凄まじい重力の波は、マスクをしていても息をするのも一苦労だ。胃には大したものが入っていない。それでも異物が這い上がってくる感触が、喉の辺りで行ったり来たりしている。
キャノピーの向こうには、青い空と一緒に、火花が散って目の神経をぴりぴりとさせていた。目を閉じても火花だけが残り、不快感へと変える。
「オーキ。大丈夫か?」
「はい。大丈夫です。飛び立つ瞬間、ちょっと……びっくりしましたが、慣れました」
強がっているだけだが、弱音は吐けない。
「もう、いっている間に飛行機が見えるだろう」
「そんなに早く着くんですか?」
「オーキが乗っているのは戦闘機だぞ。鈍行列車じゃない」
トーマスは笑っているが、リーチは顔の皮膚を歪ませることしかできなかった。ここでは笑うのも一苦労なのだ。
「せっかくだから、気持ちを落ち着かせるためにも、空の眺めを楽しむといい。ああ、下を見ると目が回ることがあるから、できるだけ左右水平に視界を保つんだな」
トーマスに促されてリーチはもう一度空の眺めを見やった。霧の固まりのような雲が、戦闘機にちぎられ、長細い筋になって背後で霧散する。まばらになる雲は白いのに、固まりで浮かんでいる雲は、灰色をしていた。見ているだけで、なにかの物語に入り込んだような幻想的な気分に陥りそうだ。けれど、景色から視線を逸らせると、今度は機体がカタカタと振動していることに気を取られ、なんだか絶望的な気分になってくる。これが墜ちないという保証などない。所詮人間が自然に逆らって作った空飛ぶ鉄だ。いくら航空力学を説明されたところで、リーチは未だ理解ができないのだ。
「オーキ、見えたぞ。かなり下にいる」
トーマスの声にリーチが下方を見ると、ジャンボが飛んでいるのが見えた。まだ飛んでいるのだと、リーチはとりあえず胸を撫で下ろす。ジャンボの周囲を飛ぶ黒い機体は、リーチ達より先に飛び立った戦闘機だろう。
「高度一万メートルを切っているな……八千……七千くらいか。車輪は出たままだが、とりあえず平常の姿勢に戻っているようだぞ」
リーチ達が乗る機も高度を下げ、ジャンボの背後へ回り込むように機体が進路変更をした。
「……ホッとしましたが……まだ、ハイジャックは続いているんですよね?」
「ああ、そのようだ。今どきハイジャックとは……余程の馬鹿か、もしくは余程頭の切れる奴が計画したんだろう」
トムキャットはジャンボの飛ぶ高さより、やや下に位置したところで、速度を落とした。他の機は左右に二機、背後左右に二機が飛び、リーダーらしい機はやや離れた位置で飛んでいた。
「……ああ、トーマスだ。……ああ、そうか……なるほど……それで、どうやって手に入れるつもりなんだ?……分かった」
トーマスが無線で誰かと話しているのを耳にしながら、リーチはジャンボをずっと眺めていた。間近に見えるものの、ジャンボは腹しか見えない。犯人達を刺激しないように、ジャンボの下を飛んでいるのだろうが、リーチは中の様子が見たいのだ。
『……リーチ……僕、気を失ってた?』
ようやくトシが意識を取り戻したのか、ぼんやりした様子で声をかけてきた。
『ああ。すぐに主導権を切り替えたけどな』
『あんなに衝撃があると思わなかったよ、僕。飛行機が離陸するのよりちょっときついくらいかな……って想像していたからだけど……。もっとすごかった……なんか、圧死って言葉が頭に浮かんだ』
トシはまだ状況が把握できていないのか、やや興奮した口調でそう言った。
『ゲームじゃこういう体験はできないからな』
『そうだよね……』
ため息混じりにトシは肩を竦めている。
『それより、真上に、ジャンボが飛んでるぜ』
『あ、あ……よかった、まだ、飛んでる……』
トシは涙目になっていた。
そう、ジャンボが飛んでいると言うことは、まだ彼らが生きていると信じられる、唯一の確認方法なのだ。もっとも中でどういう騒動が起こっているのかまで、ここからでは知る術もないが。
『どうにかして、あのジャンボに乗り移りたいんだけど……どう思う?』
リーチの言葉にトシは『できるわけないよ……』とは言わず、『そうだね……何か方法はないかな……』と、考え込んでいた。こういう時のトシは頼りになる。
「オーキ。犯人の目的が分かった。管制塔に入った機長からの連絡では、あの機に乗っている金が目当てだろうとのことだ」
無線を終えたトーマスが、リーチに言った。
「金……ですか?そんなものをジャンボに乗せているんですか?」
「アメリカに支店のある銀行が、店頭業務で円をドルに替えたときに出た円の紙幣やら、新札と交換した古い円の紙幣を日本の本店と、日本銀行へ運ぼうとしているらしい。総額はまだ確認が取れていないが……十数億あるんだと。悪いことに、数字が控えられていない古い紙幣ばかりだそうだ。これを手に入れたら、面倒なマネーローンダリングは必要ないし、確かに欲しがる人間も出てくるだろう」
「民間の機に……それも、貨物に大金を乗せて輸送なんてするんですか?」
リーチからすると考えられないことだ。狙われたら民間人が巻き込まれることなど、普通で考えても分かる。
「我々が知らないだけで、よくあるぞ。専用機を使う方が狙われるだろう?」
「そうですが。……じゃあ、犯人は日本人ですか?」
「いや、白人だろうとは言っていたが、そこまでの確認はとれていない。日本人はよく知らないだろうが、円は意外と使えるらしいぞ。海外旅行に出ても、円で買い物できるところも多いからな。日本の円は信用があるらしい。俺にはよく分からないがね。もちろん、白人が日本人に雇われているということも考えられるが……これこそ、オーキの仕事だろう?」
「ハイジャックは部署が違うので、よく分からないですね」
リーチ達は殺人課だ。放火犯も追わないし、ハイジャックも追わない。爆弾犯人も追わない。殺人が起こったところで、リーチ達の出番なのだ。
「オーキ。本当にバークの言うようなサムライボーイなのか?バークはいやにオーキを買っていたが……」
「バークは大げさなんです……はい」
肩を竦めていると、トシが声をかけてきた。
『リーチ。一つだけ方法があるけど、できるかどうか保証はないよ』
『……なんだよ?』
『あのね、後部車輪が下りてるよね?後部車輪って、貨物に繋がっていて、あそこからなら飛行機の内部に入ることができるんだ。そのほかのところから入るのは、今のところどう考えても無理。向こうが手伝ってくれるのなら別だろうけど……ハイジャックされているのに、それは無理でしょ?』
『……後部車輪に乗り移れると思うか?』
『一か八かになるけどさ、ほら、同じスピードで飛んで、飛び移るってどう?』
『あのさあ、ジャンボも戦闘機もすげえ早さで飛んでるんだぜ。キャノピー開けた瞬間にどこか遠くに俺たちは飛ばされて、酸欠か、地面に叩き付けられて死ぬのか知らないけど、最後には死体になるっての。繋げられるワイヤーがあれば別だけど……』
『……確かに……そうだよね。他の方法かあ……』
トシは頭を抱えていた。
いろいろ今までに見た映画を思い浮かべても、やはり中からの手がなければ無理な方法ばかりだ。それにこれはそういった作戦を行える飛行機ではない。
「すみません、もし、この状態であの飛行機に乗り移ろうと考えたら、トーマスさんはどういう手を使います?」
「は?」
「ほら、あの後部車輪って、貨物室に繋がっているんですよね?あそこにこう、しがみつける方法ってありませんか?」
「オーキ……無茶を言わないでくれ」
トーマスは笑っていた。確かに笑うしかないだろう。けれどリーチは真剣だった。
「できる、できないはおいて、トーマスさんなら、どういう方法を考えますか?」
「そうだな……。これは私の想像だとおもってくれよ。今、一万メートルを切っている状態だから、外は寒いが、自力呼吸ができるギリギリのラインだ。一か八かで考えて、この機体を十メートルほど降下させて、もう少しジャンボの頭に近い位置に移動してだな……あとは緊急脱出で飛び出し、開いたパラシュートを車輪に引っかけて、よじ登るしかないだろう。もっとも、うまく車輪に引っかかるかどうかというのは、想像の域を出ないがね」
背後でトーマスの言葉を聞いていたトシは『それだよ』と言い、リーチは「やります」と言っていた。