「空の監禁、僕らの奔走」 最終章
隣にはリーチがいる。
前傾姿勢を取りながらも、名執はリーチの手を握りしめていた。こうやって触れているだけで、名執はどんな状況であっても安堵ができる。もし、飛行機が墜落したとしても、最後の瞬間までリーチがいてくれるのなら、それで名執は幸せなのだ。
「……辛いのは一瞬だからな」
隣で前傾姿勢をとるリーチがふとそう漏らした。
着水するまでの暫くの間、耐えればいいのだ。本来上からやってくる重力が、下から突き上げてくるような重みを身体に感じさせていた。もしシートベルトをしていなかったら、空中へ投げ出されているのではないかと思うほど、その力は強い。
ゴーッという耳鳴りが聞こえ、周囲の客達の不安げな声も、その音に混じって聞こえるのは、金属の大きな固まりである飛行機が、ガタガタと激しく揺れて、空中分解しそうな気にさせるからだろう。
もしかすると、普段、問題のない飛行機も、実はこんなふうに揺れているのかもしれない。頑丈な鉄の翼を大自然の中では頼りなく震わせているのに、幸運な離着陸の中、人々が気づかないだけ。
そんなことを考えてしまうほど、着水まで妙に時間が長く感じられ、名執は額に汗を宇浮かべていた。体調がいいとか悪いとか、ここにきてよく分からなくなっている。吐き気があり、眠気もある。どちらとも同じだけの欲求で、天秤が上手く釣り合っているからか、吐くことも眠ることもできない。
「あ……」
垂直に落ちていくような感覚が一瞬、失われ、同時に身体が浮かび上がるような浮遊感が感じられた。同時に凄まじい衝撃が二度、三度と下から襲ってきて、おもわず頭が上がりそうになったのを、リーチの手が押さえた。
「リーチ……っ!」
今すぐ抱きしめてもらいたいという強烈な欲求が、そのままリーチの手を掴む力となる。掴まれているリーチはきっと痛いはずだ。分かっているのに、手の力を抜くことができず、名執はリーチの手を握り続けた。
「もうすぐだ……」
筏に乗って波に揺られるような、前後の大きな揺れを感じた。同時にザアッという水の音が間近で聞こえ、それはますます大きくなる。横揺れはなく、前後に揺れている感覚が伝わってきて、徐々に緩やかに変化していった。
『無事、着水に成功致しました。飛行機はすぐには沈没することはありませんので、パニックにならず、客室乗務員の指示に従って、この機から脱出してください』
機長のアナウンスが入り、名執が顔を上げると、リーチはすでにシートベルトを解いて、名執のシートベルトを外そうとしていた。
「あ……私……すみません」
リーチと一緒にいて恐怖などないはずなのに、指先が震えて言うことをきいてくれないのだ。そんな名執を分かっているのか、リーチがシートベルトを解いた。
「皆さん、出口はこのフロアだけで二カ所あります。お一人ずつビニールで膨らませた滑り台を降りて頂きます。下に降りられたら、滑り台から離れ、他のお客様と手を繋いでお待ちください。すでに海軍がゴムボートを用意し、こちらへ向かってきています」
客室乗務員が、前のドアを開け、すでに膨らませた滑り台を眺め下ろしながら、一人ずつ順番に下ろしているのが見えた。
「……幾浦さん。彼を頼みます」
リーチがそう言って、名執を幾浦の方へと押しやった。
「え……」
驚く二人を前にして、リーチは言った。
「下に取り残した犬を連れてきます。お二人は先に行ってくださいね。ああ、私はここでお別れです。私のことは心配しないで、お二人は正規の手続きで帰国してください。今度は日本でお会いしましょう」
「嫌です……!」
背を向けて去っていこうとするリーチを追いかけようとした名執を、幾浦が止めた。
「名執」
「幾浦さん……どうして?」
駆けて行くリーチの後ろ姿をじっと眺めながら、名執は呟くように言った。
「利一はここにいてはならない客だ。それを私たちは覚えているだろう?彼のことなら大丈夫。上手くやるだろう。どうせ、最初からそういう段取りだったんだ」
確かに幾浦の言うとおり、リーチとは別々に日本へ帰国する予定だった。けれど、ここまで来たら一緒に帰りたいと思うのが、普通だろう。とはいえ、リーチは正規の手続きを経てアメリカに来たわけではないのだから、仕方がないと諦めるしかないのだ。
「……ええ」
「私たちは利一とは会わなかった。ハイジャックを片っ端からやっつけてくれた男がいたことは覚えているがね」
「ええ」
「名執、先に行け」
「あっ!」
順番が来ていたことに気づかず、名執は幾浦に背を押されて、ビニールの滑り台を一気に降り、着水した。考えていたほど水温は低くなく、また海水の味もしっかりと感じられた。
「お金?」
どこから来たのか分からないが、水面にはたくさんの紙幣が漂っていて、軍が人と一緒に金も回収している。
「……」
普通では見られない場所に浮かんでいる白い機体を見上げて、名執は細く長く息を吐き出した。飛行機はまだ沈む様子はみられず、大海に浮かんだまま、大きく揺れていた。リーチはどうやってここから出るつもりなのだろう。そんなことを考えていると、幾浦の声が響いた。
「名執……ほら、ぼんやりしてないで行くぞ」
「え……あ……待って、あれっ!」
機体の真ん中からビニールの滑り台が突然降りてきて、リーチらしき人物が、アルを突き飛ばした。人間用の救命具をつけられたアルは四つん這いで滑り、海へと投げ出される。が、すぐに海水を前足で器用にかいて、こちらへ向かって泳いでいた。
「アルッ!」
幾浦はアルに向かって泳ぎだしたが、名執はリーチが姿を見せた……今は誰もいないところをいつまでも眺めていた。
ハイジャック事件から一週間が経っていた。
世間ではいまだ、ハイジャック犯から乗客を守った謎の男を追いかけるニュースがずっとやっていたが、結局謎のままで、いつしか新しく起こる凶悪な事件に少しずつ話題を奪われていた。
どんな悲惨な事件も、こういう結末なのだ。
時間とそして新しい事件によって忘れられていく。
名執にとってもすべてが過去の出来事で、今はリーチと抱き合いたいだけだ。
リーチに捨てられたのだと誤解し、何も口にすることなく、ただ死を待っていたあのときから、それほど時間は経っていないはずなのに、もう何年も経っているような気がする。
名執は部屋の時計を見上げて、もうすぐリーチがやってくるのを、今か今かと待っていた。つい一時間ほど前、ようやく日本に帰ってきて、今から行くと連絡があったのだ。
「リーチ……」
リーチのキスマークが消えることなくこの身体にあったはずなのに、いつから彼の刻印が消えてしまったのだろうか。
早くこの身体をリーチによって隅々まで愛されたい。今までそうであったように、リーチの所有の印が消えぬよう、熱い愛撫をこの身に早く受けたい。
キスの熱さを思い出し、身体の奥が疼く。
再会したとき、体力がまだ快復していないと言って、拒否されないよう、名執は三食をしっかり摂り、体調を整えていた。だが、体調はよくても、耐えられない飢えが理性を浸食して限界に来ていた。
ピンポーン。
玄関のベルが鳴らされ、名執はリビングから駆けだした。
「や~ようやく帰って来たぜ」
合鍵を使ってすでに玄関で靴を脱いでいるリーチに、名執は飛びついた。
「おい……おいって」
「私が満足するまで当分帰しませんから……」
そう言って名執は艶やかな唇をリーチの唇に押し当てた。