Angel Sugar

「空の監禁、僕らの奔走」 第2章

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「そろそろ行くか?」
 幾浦が時計を確認して立ち上がると、名執を促すように手を差し伸べてきた。
「ええ。そうですね」
 ゆっくりと腰を上げ、名執はようやく立ち上がる。リーチは首を傾げるようにして名執の様子をじっと窺っていた。リーチとここで別れることが辛い。一日我慢すれば日本で会えるのだろうが、心の底で深く澱んでいる拭えない不安が、名執の足を重いものにしていたのだ。
「そんな顔、すんなよ」
 苦笑した顔でリーチは言い、名執の不安など気付いていない様子だ。いや、リーチの場合、分かっていて苦笑しているに違いない。随分リーチを心配させてきた身だ。これ以上、リーチを不安にさせるような表情はしてはならない。
「はい」
 できるだけ心配をさせないよう、名執は精一杯の笑みを浮かべる。
「そういえば、アルはもう貨物に積んだのか?」
 名執から視線を逸らせて、リーチは幾浦に聞いた。
「ああ。先に連れて行った。」
「ていうか、何でお前、出張にアルを連れてきたんだ?」
「動物は癒しになるらしいから、名執に会わせてやろうと思ったんだ。アルなら名執も知っているだろうし。もっとも、お前が絶対に会わせてくれなかったから、無駄骨だったがね」
 幾浦はため息をついて名執の荷物を自らの肩にかけた。自分で持ちますのでと何度言っても幾浦は『いいから』といって名執の手から荷物を奪う。申し訳ないと思いつつ、名執は幾浦に甘えさせてもらうことにしていた。それよりも、真っ直ぐ立ち、歩くことに専念し、これ以上の迷惑をかけないように神経を集中した方がいいだろう。
「申し訳ありません。せっかくの心遣いを……」
 幾浦やトシに会いたかったのは山々なのだが、どうしても気が進まなかったのだ。実は今でも自分のみすぼらしい姿を見られていると思うと、体が竦んで動けなくなりそうな気分に陥る。
「いや。そういうことにしているが、実は今回の出張の間、誰も預かってくれなかったんだ。アルは動物ホテルが嫌いでね。仕方なしに、連れてきたというのが本当の理由だ」
 幾浦は笑うが、それは名執を気遣っての嘘であることに気付いていた。
 ずっと、利一を独り占めしていたのだから、日本に戻ったら彼らにもゆっくり過ごせるプライベートをプレゼントしなければならないだろう。リーチは難色を示すだろうが、幾浦もトシのことを大切にしていて自分達の時間が欲しいと願っているのだ。名執がもし彼らの立場なら、とても耐えられなかったに違いない。
「幾浦。マジでいろいろありがとう。じゃあ、気を付けてな」
 珍しく、リーチは真顔でそう言って、プイとそっぽを向いてしまった。これはリーチの照れ隠しなのだ。
「リーチも気を付けて」
「さあ、行けよ。遅れるぜ」
 リーチは二人を追い立てるように手を振った。名残惜しいが、幾浦に促されながらも名執は歩く。肩越しに見えるリーチはいつまでもそこにいて、手を振っていた。ただ、それだけであるのに、胸が痛み、名執は途中からリーチの姿を見ることができず、前を向いて歩くことに集中した。



『行っちゃったね……。寂しい?リーチ』
 先程起こしたトシがからかってきた。
『別に……』
 むっつりした顔で、名執が通り過ぎて行ったゲートをの方をぼんやりとリーチは眺めていた。少し触れただけではとうてい満足などできない。幾浦さえ嫌がらせをしなければ、昨晩くらい、ラブラブな一夜を過ごせただろう。
 だが、珍しく今回は幾浦に迷惑をかけたことを自覚しているリーチだ。やはりこれは日本に戻ったら、少しくらいトシといい思いをさせてやらないと、文句を言われそうだった。
『……まあ、トシ達にも迷惑かけたし、休みが取れたら先にお前らに譲るよ。今回は、随分主導権を譲ってもらっていたしな』
 向こう側に行ってしまった名執はすでに小さな影となっていた。それでもリーチはまだその後ろ姿を追っている。自分達もここをあとにしなければならないのだが、なんとなく離れがたく、完全に見えなくなるまで……と、居座っているのだ。
『リーチ。どうしちゃったの?なんか、僕、リーチらしくない提案を聞いたんだけど』
 本当に驚いた口調でトシが言ったため、リーチは鼻の頭を掻いた。
『俺だって、一応、悪いと思ってるんだからな』
『じゃあ、ありがたく譲ってもらおうっと。恭眞と二人でゆっくりできる時間が欲しかったんだ。でもさあ、僕たち日本に戻るのはいいけど、どうする?警視庁じゃあ大変なことになってると思うんだけど……』
『だろうなあ』
 誰にも本当のことを告げずに日本をあわただしくあとにしたのだ。しかも、米軍基地から国外に出たために、誰もリーチ達が何処にいるのかを知らない。病院襲撃事件後すぐ姿を消したため、現在、大変なことになっているのは考えなくても分かる。
『ただいま~じゃ、済まないよね?』
『正直に言うしかないだろうな……』
 はあ……とため息をついてリーチは言った。
『正直に?誰に?』
『田原管理官。とりあえず、なんとかしてもらう……』
 何とかなるのかどうか不明だが、適当な嘘もつけそうにない。名執のことは隠し、あとのことを少々脚色して本当のことにすればいいのだ。リーチ達は狙われていた。彼らに拉致されアメリカに運ばれたと話すしかない。
『……クビになるかも……』
 不安げにトシはそう言って肩を落としていた。
『そうだな。クビになったら幾浦の会社にアルバイトでしばらく雇ってもらえよ。その間に再就職先を探すしかないだろ』
 アルバイトであっても幾浦の会社には行きたくないリーチだが、今クビになってしまうと、家賃や借金が払えなくなる。それも死活問題なのだ。幾浦の方は快く――というより、大歓迎で――雇ってくれるよう、手配するに違いない。もちろん、リーチを雇うのではなくトシの方だろうが。
『ま、頭の痛いことはあとで考えるか。そろそろ行くぜ』
 ようやく空港をあとにする気になり、リーチはきびすを返して歩き出す。明日には名執に会えるだろう。先に一晩過ごしてから警視庁の方へは行けばいい。顔を出せばそこで数日は拘束されることが分かっているからだった。
『お菓子を食べるとき、交替してね。僕、ポテトチップスが食べたい~』
 トシはリーチがしこたま買い込んだ菓子の中で、ポテトチップスが無性に食べたい様子だった。他にチョコや、一口ケーキ、クッキーなど買ってある。
『いいぜ。あ、ケーキも買ったんだ。行きに缶コーヒーを買うつもりだけど、トシはどうする?』
『僕は、シュガーレスの紅茶がいいな。あ、空軍に持っていく差し入れとチップも持った?』
 リーチはふとすれ違った男たちが名執の同じ便に乗るような会話を耳にした。それに反応して、足を止め、振り返る。そんなリーチにトシは怪訝な顔をして見せた。
『……どうしたの?まさか知り合いでもいた?』
 一瞬しか顔を見なかった。男たちはアメリカ人で、みな仕立てのいいスーツを着ていた。それぞれブランドものの旅行バッグを持って、笑顔を浮かべて雑談しながら歩いていく。それはいい。だが、リーチは何かを感じたのだ。
『いや……そうじゃない』
『……じゃあ、なに?あの人達が気になるの?』
 リーチが見つめている男たちのことをトシは聞いてきた。
『最初はユキ達と同じ便に乗るって会話が聞こえて振り返ったんだが、じっと見てると、あいつら何か、企んでるような気配がした』
『殺しでもしてる感じ?』
『いや、よく分からないんだ……。何だろうこの感じ』
 空港の警備はテロに対する警戒から、日本など足元に及ばないほど、厳重になっている。こんなところに危険物を持ち込める余地はない。にもかかわらず、死神が自分の影を踏んで何かを警告しているような気がした。
『雪久さんのことになると、同乗する人まで気になるんだね。もう、心配性すぎるよ』
『そう、そうだよな……』
 頭から男たちのことを振り払い、歩き始めたものの、どうしても彼らが気になる。こういう不可視な未来まで春菜が教えてくれたらいいのだろうが、春菜は未来を見るわけではないのだ。直前、しかも利一に対する警告のみ限定なのだからしかたない。
『今からあいつらの便を変えること出来ないかな?』
 すでにリーチが追えないところに行ってしまった名執のことを思い、とてもできないことを口にした。
『そんなに心配なの?』
『……』
 ただ、神経質になっているだけなのだろう。名執のことになるとリーチはピリピリしてしまうのだ。いや、いろいろあったため、落ち着きをなくしてしまうのかもしれない。
『いや。気にしすぎだよな……ほんと、俺ってユキにメロメロだ』
 苦笑しつつ、フッと過ぎった不安をリーチは振り払った。
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