Angel Sugar

「唯我独尊な男4」 第1章

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 朝、目覚めると思い出せない夢にうなされていることだけを覚えていて、ぐっしょりと汗をかいていることがある。いつそれがやってくるのか、どういったきっかけで見てしまうのか恭夜にも分からなかった。
 内容は思い出せないものの、過去の事件で体験したことを夢に見ているに違いない。ただ、内容を思い出せないだけだった。
 今朝もごくたまにやってくる悪夢から、ようやく覚めることができた恭夜はいつものごとくパジャマを己の汗で湿らせていた。
「……あ……」
 ぼんやりとした意識の中、誰かを捜すように両手をシーツに這わせるのだが、いつもとなりにいるはずのジャックの姿はなかった。
「ジャック……」
 まだ霞んでいる目を擦り、もう一度周囲を見渡す。静まりかえった寝室には恭夜しかいない。一人で眠るのには広すぎるベッドから恭夜は身体を起こして、遮光性のカーテンの隙間から漏れる眩しい朝日に瞳を細める。
 そうだった……
 あいつ……出張に出てたんだ。
 はあっと息を吐き、べったりと張り付いている前髪を後ろへと追いやって、もう一度息を吐いた。ジャックとセックスをしたわけでもないのに、身体が怠い。肩になにかが乗っているようなずっしりとした重みを感じる。
 どうせまた、例の夢でも見たのだろう。ごくたまにやってくる思い出せない悪夢だ。いつだって突然やってきては、恭夜を一晩唸らせて、あの事件を忘れさせてくれない。しかもジャックがいないときに限って悪夢は恭夜を苦しめる。
 もっとも、ジャックがいたなら夢など悠長に見る暇など与えてくれない。散々セックスに付き合わされて、最後には泥のように眠るのが恭夜の日常だからだ。
 見たところで姿などない男の姿を探すように、ゆるゆると恭夜は寝室を見回して、ため息をつく。悪夢にうなされると、時にはセックスをしたときよりも身体がくたくたになって、ひどい目覚めを体験することになるのだから、ジャックがいた方がいいのか、それともごくたまに見る悪夢だからと割り切るべきなのか、恭夜には未だ判断がつかなかった。
 ただ、ここ最近、悪夢を見る間隔が近くなってきているような気がする。以前はいつだったかという日にちは覚えていないが、なんとなくついこの間も見たような気がした。いくつか戻ってきた記憶が、なにかを活性化させているような……嫌な気分だ。
 シャワーでも浴びるかな……。
 ベッドから降りてヒンヤリとした床に裸足で立った。気分は最悪で、吐き気までしそうだ。一体どういう夢を見ているのかいつも気になっているのだが、蓋を開けない方がいいのだと、結局恭夜は深く考えることをしないのだ。
 記憶はいずれ全てお前のものになる……とジャックは言った。それまで待てばいいのだと恭夜は自分に言い聞かせている。とはいえ、ただ、猶予期間が与えられているだけのような気がしてならない。
 やめやめ。
 考えたら暗くなる。
 頭を左右に振って、恭夜は言葉には表せない不安を振り払った。ジャックが留守にしている間、自由を満喫することだけを考えたらいい。身体中に残っている疲れを一気に吹き飛ばせるのもこの間だけだった。

 普段より熱いシャワーを浴びて、軽くローブを羽織っただけの姿で恭夜はバスルームから出る。そこからすぐに玄関へと新聞を取りに向かった。目覚めたときに感じた嫌な気分はもうない。それよりも、本日土曜で仕事が休みであることで、一日どうすごそうかと考える方に意識が向かっていて、楽しい気持ちになっていた。
 飯食ったらビデオでも借りてきて見ようか……。
 そろそろ、新しい服も欲しいから、昼から出かけてショッピングでもするかな。
 いろいろ楽しいことを思い浮かべつつ、いつの間にか着いた玄関で、届いている新聞の束を掴むと今度はキッチンへと足を向けた。
 やっぱ、競馬かな~。
 それともロトシックスでも買ってこようか。
 キッチンに入ると、テーブルの上に置いてある袋に手を突っ込み、食パンを一枚取り出して恭夜は噛みついた。料理を作るような面倒くさいことが一人だとできないのだ。もっとも、ジャックがいたところで恭夜は自ら包丁を持ったりしない。ジャックが持たせないといった方がいいだろう。
 あれほどキッチンの似合わない男はこの世にいないと毎度見るたびに恭夜は思うのだが、本人が機嫌良く作っているのだから文句は言えない。いや、ジャックに文句を言える相手がいたら教えて欲しいほどだ。
 もごもごと口を動かして、なにもつけなくても甘みのある食パンの味を噛みしめつつ、恭夜は持ってきた新聞を広げた。もちろん、真っ先に見るのはテレビ欄だ。なにか面白い番組でもあれば、一日うちにいてぶらぶらしていてもいいだろう。だが、見てみたいと思うような番組は見あたらず、恭夜はもう一枚パンを袋から取り出して食べた。
 なんか……
 気が抜けてるよな……俺。
 ジャックが留守をすることはよくあることだ。仕事の引き合いが多く、余程断れないものであればジャックは重い腰を上げる。交渉人という特殊な仕事であるためか、たいてい連絡を受け取ってすぐに出かけていくことがほとんどだった。そしていつの間にかここへ戻ってきている。
 忙しい男だよなあ……実際。
 とはいえ、ジャックが日本で暮らすようになる前はもっと仕事を抱えていたような覚えが恭夜にはあった。どのくらい頻繁に出かけていたのかあまりはっきりと覚えていないが、確かによくこうやって一人で食事をしていた記憶があるのだ。
 なんだかな……
 どうしてあのころの記憶まで、こう、あやふやなんだろう。
 一週間ほど前、クーパーから知らされた事実に恭夜はもう少しでまた自分の殻に閉じこもってしまうところだった。その時、思いだしたことは、あの事件のことだけではなかった。もちろん、あの事件が絡んでいたからきっかけとなるクーパーとの出会いが忘れ去られてしまったのだと今では理解している。では、どうしてジャックと暮らしはじめた頃の記憶まであやふやになっているのだろうか。
 なんでだろうな……
 口の中にあるパンを呑み込むと、手についたパンくずを払った。
 ジャックとの出会いは覚えている。
 一緒に暮らした日々が一体どういうものであったのか、ほとんど思い出せる。
 ただ、細かい部分があちこち抜け落ちているのだ。それとも、記憶というのはこういうもので、今後これは必要ない……と無意識が判断した部分は、時間の経過と共に薄れて消えていくのだろうか。
 それとも、ジャックもなにかあの事件に関わりがあったのか。
 ……まさか。
 あいつは中東に行ってた。
 俺のことを途中で知って戻ってきたんだから、関わるもなにも……。
 テーブルに掛けられたクロスに頬をべったりと付けて、恭夜は両手を伸ばす。なにかこう、掴めそうで掴めないなにかが、ふわふわと漂っているように見える。
 ……そういや……俺。
 最初はあいつのうちで暮らしてたんだよな。
 ジャックの実家は普通ではない。
 敷地がどれほど広大なのか、面積を聞いたことはないが、入り口の門から建物までの距離を車で数十分移動するのだ。しかも森のようなところを切り開いて作ったような道路を走っていくのだから、どこからどこまでがライアン家の所有地であるのか、恭夜は聞くに聞けず結局分からずじまいだった。
 綺麗に手入れされた芝生の中に建つ白い洋館は、昔見た映画に出てきたような中世の城を思わせるもので、部屋数など想像がつかないほど横に長く、家の中に入ったら迷うのではないかと恭夜はそればかり考えていた。
 そこには寝ているのか起きているのか分からない細い目をした、初老の男が執事として雇われていて、数えたことのない--いつ会っても見たことのない使用人たちを統括していた。同じ使用人に会ったことがないのだから、一体何人雇っているのか恭夜は数えたこともなかったし、未だに知らない。
 執事がジャックのことを『坊ちゃん』と、呼んでいるのを初めて聞いたとき、恭夜は驚愕した。いや、腰を抜かしそうになった。
 あの、ジャックが『坊ちゃん』なのだ。
 もちろん、年齢からもそう思うのだろうが、やはりどこをどうねじ曲げても恭夜にはジャックが『坊ちゃん』と呼ばれるタイプには見えない。だが、あれほどの財産を持っている両親の息子なのだからジャックもニールも『坊ちゃん』になるのは当然だ。そう自分に言い聞かせても、恭夜はあの執事がジャックを呼ぶたびに笑いが顔に浮かんだことを覚えている。
 恥ずかしい奴……などと思っていたのだが、恭夜がしばらくそこに滞在……いや、住んでいたとき同じように『キョウ坊ちゃん』と呼ばれるようになったのだけは恭夜も参った。
 だが、そこでの生活は長く続かなかった。
 そういや……あのじいさん。
 元気にしてるのかなあ……。
 思いだして思わずくすくすと笑っていると、インターフォンがなる音が聞こえた。
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