「唯我独尊な男4」 第30章
「……」
恭夜は浮かせた腰を下ろし、息を吐いた。緊張しているものの、撃たれた左腕の痛みがひどい。内部に熱で溶かした鉛を流し込まれたような痛みだ。左の指先は小刻みに震え、自分の意志では抑えられない。
こんな痛みをジャックも感じていたのだろうか。
痛み止めを飲んだ方がいいのかもしれない。
恭夜はテーブルに置かれた救急箱を開けアンチピリン(鎮痛剤)と書かれた錠剤を手に取り、水もなしに飲み込んだ。クスリは喉に苦い味覚を残したまま、胃に入る。暫くすればこの痛みが和らぐに違いない。
恭夜が息を浅くしながら痛みに耐えていると、キャビネットに置かれたインターフォンが鳴った。パブロはチラリと視線を向けて、何かを言い淀むように口を開いたが、鳴りやまないコールにうんざりしたのか、恭夜たちに背を向けると、部屋の端にあるキャビネットに向かった。
「あの……本物の副大統領……ですよね?」
間抜けなことを聞いていることを、恭夜も理解していたが、テレビでしか見たことのない人間を目の前にして未だに信じられないのだ。
「そうだ。君が幾浦恭夜くんか……」
肉厚な脂肪がぶら下がっているような瞼を上げ、モーガンは小さな瞳をこちらに向けた。
「俺、自分がどうして巻き込まれているのか分からないんですけど。ご存じですか?」
恭夜の問いかけに、モーガンは瞼で瞳を隠し、押し黙ってしまった。
「あの……」
「お話はそこまでにしてください。ところで、この写真を見てどう思います?」
戻ってきたパブロは二人の会話を遮ると、一枚の写真を恭夜の目の前に置いた。その写真には若い男が一人、写っている。赤茶のくすんだ色の髪。尖った鼻に、薄いグレーの柔和な瞳。その男は、カメラを持って今、自分を映そうとしている誰かに笑いかけながら、牧場の柵にもたれ掛かっている。
見たことはない――確かに恭夜は一瞬考えた。だが、じっと眺めているうちに、どこかで見たかもしれないと思うようになった。
写真を真剣に見つめている恭夜にパブロはもう一度、言う。
「見たことがありますか?」
「分からない……」
恭夜は痛む方の手で目元を押さえながら、答えた。
頭の芯が痛む。
見たことがあるのか、それともないのか。たったそれだけのことであるのに、はっきりと答えられないのだ。パブロに関しては知らないと判断ができた。だが、今、目にしている写真の男に対しては、はっきりとした答えが出てこないのだ。
見たことも、会ったこともない。
そう思うのに、心のどこかに引っかかっている顔だった。
「知らないはずはないんですよ。彼は貴方が関わったものと同じ事件に巻き込まれた人間ですからね」
淡々とパブロは言った。
「俺が関わったって……じゃあ……」
もう一度、テーブルに置かれた写真を恭夜は凝視した。
記憶の中にあるのは、ぼんやりとしたものだった。部屋の間取りは霞み、そこにいた人間の姿も、影絵のようにしか思い出せない。ニールやクーパー、そして巻き込まれた家族の姿だけが鮮明で、それ以外はぼんやりしたものだったのだ。だがそれらも写真のような記憶になっていて、一枚、一枚、ワンシーンとしてのものばかりで、連続した映像として思い出せるわけではなかった。
「この人も……巻き込まれた?」
こういう顔の男を見ただろうか?
何度眺めてみても、恭夜には頭が痛くなるばかりで、記憶の引き出しからこの男の姿が出てこない。
「巻き込まれたといえばそうですが、立場的には貴方側ではないんですよ、彼は……」
「それは……」
ニールの側の人間ってことか?
じゃあ……俺のことを……。
恭夜は突然吐き気に襲われた。
この写真の男も、クスリで我を忘れた恭夜に触れたことがあったのだろうか。だが、恭夜は己に触れた男たちの顔や姿を覚えていなかった。
自分の知る、二人の人間以外は。
「思い出しましたか?」
吐き気を堪えて口を押さえながらも、写真を凝視している恭夜を、パブロは覗き込んでくる。
「思い出す気なんてねえよ。あんたの知り合いがどういう人間か、俺は知らない。だけど、あんな連中に関わった奴なんて、俺はもうこれ以上、誰一人として思いだしたくねえよっ!」
そう叫んだ瞬間、パブロは恭夜の座る椅子を蹴飛ばした。恭夜は椅子と一緒に後ろに倒れ、身体が床に転がった。立ち上がろうとすると、パブロは冷え冷えとした表情のまま、傷口を押さえている恭夜の手の上を踏みつけた。
「――――くっ!」
「言葉は慎んだ方がいいですよ。彼は君の思うような人間ではありません。私が保証してもいいほどです。君の言う、あんな連中に無理矢理、協力させられた。ジャック・ライアンがいつも通りに交渉を進めていたなら、彼は死ぬことなどなかったでしょう。いえ、あれはジャック・ライアンに殺されたんです。あそこにいた連中、ひとまとめにして、君の信頼している男が殺した」
静かな声であったが、見下ろすパブロの瞳には怒りの炎が揺れているように見えた。
「……あれは私を呼んでいるように聞こえるが?」
先程、遠くからジャックと呼ばれたような声が聞こえたのだ。気になったジャックが身体を起こそうとするとデビットが制した。
「そのようですが、ようやく弾を摘出したところです。今動くと言うなら、黙らせますよ」
皮膚にこだわる男は、周囲の看護婦が視線を避けるほど凄味のある目でジャックを睨み付ける。
「誰でもいいから様子を見に行かせろ」
ため息をつきつつ、ジャックが言うと、デビットは目だけで看護婦に合図をして、己の仕事に戻った。デビットに指示された看護婦は、表情一つ動かさず、手術室を出ていった。
「仕事熱心なのは相変わらずですね」
感情のない表情でデビットは言う。
「仕事熱心な訳じゃない。キョウが気になる。見張っていないとウロウロと歩き回って、すぐに何かに巻き込まれているからな」
「仕事の邪魔になるのでしたら、クスリで一週間ほど眠らせておくと良いんですよ。多少カルシウムが骨から落ちるでしょうが、点滴にカルシウムも入れておけば心配することもありません」
「……骨から離れろ」
息を細く吐き出して、ジャックが目を閉じようとすると、先程の看護婦が戻ってきて、デビットに耳打ちする。
「私が面倒を見る理由はありません。医者は沢山いるだろうから、医局に言って誰か回してもらてください。あんな平凡な男にかける時間は一秒たりとも持ち合わせていませんからね」
デビットの言葉に、看護婦は頷くこともせずにまた去っていった。
「今のはなんだ?」
「ええ、理由は知りませんが、この私の手術を受けたいからといって、血まみれでオペ室の前で唸っていた男がいたそうです。神の手に授かりたい患者が多くて困りますね。でも私は自分が欲しいものをもつ患者しか診ないんです」
笑いもせずにデビットは言った。
「誰が蹲っていた?」
「このテープで傷口を一時的に留めておきます。一番、痕が残らない方法ですが、肩を動かせないように固定させてもらいますので、激しい運動は避けてください。暫く、不便でしょうが、傷口が塞がるまで不自由を満喫するのも楽しいですよ。ジャックの仕事は犯人とお話しするだけですから出来ますね?」
何かを剥がすような音が聞こえたが、デビットの手元は見えない。
「……誰が蹲っていたのかと聞いてるんだっ!」
身体を無理矢理起こし、デビットの胸ぐらを掴んでジャックは叫んだ。が、信じられないことに軽い目眩を感じた。
「テイラーと呼ばれているFBIの特別捜査官ですよ」
テイラーが何故血まみれで倒れているのだ?
事件が急展開するような様子はなかったはずだった。もちろん、ジャックが現場を離れるまでは――だが。
「大丈夫ですか?ジャックから預かっていた輸血用の血が足りなかったんです。今度はもう少し多く血を採って保管して置いた方がいいかもしれません」
デビットは支えるようにジャックの背に手を回しながらももう片方の手は止めず、傷口に包帯を巻いていた。
「ああ、仕事が終わったらな。それで、テイラーは生きているのか?」
いつの間にか戻ってきていた能面のような看護婦にジャックは聞いた。
「両太股からの出血は随分ありましたが、私が見る限りでは動脈や静脈を傷つけている様子はありません。医局に伝えて外科医を手配し、隣のオペ室に入りました。ご心配は無用だと思います」
一つ一つ区切りをつけた言い方で看護婦は答えた。
「分かった。隣だな」
ジャックは包帯を巻き終えた身体にブルーの手術着の袂を合わせると、デビットが止める声を無視して、裸足のまま隣のオペ室に向かった。