Angel Sugar

「唯我独尊な男4」 第12章

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「えっ?」
 天井を向いて恭夜が耳を澄ますと、確かにパラパラという音が聞こえたが、はっきりとは聞き取れなかった。このうちの防音はかなりしっかりと施されているようで、真上に来ているようには聞こえない。
 だが、敏腕の刑事の利一が、このマンションの上だと言うからには、来ているのだろう。窓側に近寄ればもう少し聞こえるかもしれないが、先ほど、ヘリで来たという利一のことにさえ気づかなかったのだ。
 そういえば、外を走る車や、他の住民の出す生活音など聞こえた試しがない。今住んでいる場所が最上階に位置する階だったため、下を走る車の音が聞こえないのだとばかり思っていたが、違ったようだった。
「うん。そう言われると、なんか……聞こえる」
 キョロキョロと天井を見回して恭夜は言う。あまり危機感はないが、利一はどこかそわそわとしていた。
「……どうしましょう。ベランダから外を確認したいのですが、ここを離れることもできません」
 う~んと、唸り、利一は何かを考えている。
「別に、見に行ってもいいぜ」
 どうして利一がそこまで心配そうにしているのか恭夜には分からない。
「そこの人に拉致されたいんですか?」
 じ~っと黒目がちの瞳に見つめられ、恭夜は驚いた。
「は?あの人は客だろ?それもジャックの」
 ニコニコとした表情で玄関に立っているサラームをチラリと見て、また利一の方を向く。
「さっき恭夜さんを拉致しようとしたおじいさんもジャック先生の関係者でしょう。もう、恭夜さん。本当に私、怒りますよ」
 口をやや尖らせて言う利一は、ちょっぴり怒っているようだ。いや、先程から怒られてばかりかもしれない。なんとなく、この可愛らしい利一の方が立場が上という今の状況は恭夜にとってやや、納得がいかなかったが、殴り合いをすると絶対にこちらが負けるという確信はあった。
 利一は侮れない男なのだ。
 もっとも、警視庁捜査一課で名を馳せている男なのだから当然かもしれない。本当に柔な男ならあそこで仕事などできないはずだからだ。
 ここは一つ、利一に頼る方が得策だろう。
「それとこれとは違うだろう」
「あのですねえ……今は誰でも疑ってしかるべきです。いいですか。知らない人を簡単に信用したり、ほいほいついていったりしないで下さい。私が側にいて恭夜さんを連れて行かれでもしたら、あと、ジャック先生からひどい目に合わされるの私なんですから……」
 チクチクと利一は笑顔のまま嫌みを言う。もっとも、利一は可愛い顔立ちをしているために、言葉が多少きつくても腹が立たない得な顔と性格をしていた。
「わ……分かってるよ」
「……あ。う~ん……伝ってますね」
 利一は天井を見ていたが、今度は壁側に向ける。だが、いくら耳を澄ませても恭夜には何がどうなっているのか分からない。
「伝ってるって?なにが?」
「まず先に、そこにいる人を帰してから対策を講じましょう。ただ、もう遅いかもしれませんが……」
「だから、伝ってるってなんだよ……」
 利一は恭夜の言葉を無視し、サラームに英語で話しかけた。
「済みません。ちょっと取り込んでいまして、日を改めていただくことはできませんか?」
「先程から上を見たり横を見たりされていましたが、何かありましたか?」
 不思議そうなサラームの表情だ。サラームにもヘリの音が聞こえなかったようだ。
「ちょっと込み入ってるんです。申し訳ないんですが、少しの間だけでも外に出て待っていて下さい」
 「いや、まだ用が済んでいませんので……」というサラームの身体を利一はグイグイと無言で押し、外へと追い出すと、扉を閉めて鍵をかけた。
「なんで、鍵、かけんの?」
 外に出されたサラームが、扉の向こうで「ですから……用はまだ済んでいないのです。開けて下さい」と、言っているのが聞こえる。
「同時に二手……もしくは三手を相手するのは私にもきついんです」
 利一は見たこともない、きつい眼差しへと変わっていた。こういう利一を恭夜は知らなかった。そのせいか、物音などしない自宅にいるはずなのに、恭夜は奇妙な焦燥感に駆られ出した。
「隠岐……」
「ベランダから侵入したようです。六人……ですね。私たちを捜しているように、うろうろしてます……」
 目を細めて利一が言うのだが、恭夜には人の気配を感じられなかった。それより恭夜には未だ物音一つ聞こえないのだ。なのに、どうして人数まで利一は分かるのか、それが不思議で仕方ない。
「キッチンに今から向かっても遅いでしょう。刃物を取りに行く余裕はありません。私の後ろに回って下さい」
 小さな声で利一は言う。だが、恭夜にはそこまでの危機感がまだない。
「早くしてください」
 やや声を荒げて、利一が言ったため、恭夜は何がなんだか分からないまま、後ろに回った。
「何か武器になるものありますか?刑事と言っても凶悪犯を追うとき以外は銃の携帯をしていませんので、私には今、武器がありません。そうですね、ゴルフのドライバーでもいいですよ」
 シューズボックスを眺めて利一は言う。だが、恭夜もそうだが、ジャックもゴルフという趣味を持っていない。
「……傘しかねえ」
 シューズボックスの一番端の扉を開けて、一番長そうで、頑丈そうな傘を手に取ると、柄の方を利一に向けた。
「傘ぁ?」
 利一は裏返ったような声を出して、恭夜の差し出す傘を手に取ろうとしない。
「俺も応戦するけど……」
 恭夜は片手に傘を持ったまま、もう一方の手で殴ったらいたそうな傘を手に取る。
「……傘……傘ですか……」
 渋々という様子で利一は傘を手に取った。
「なあ、玄関から外に一気に駆け出すとかどう?」
 傘を握りしめて、恭夜が前に立つ利一に言うと、ため息が聞こえた。
「……私がどうしてヘリでここに来たと思ってるんですか。下はさっきのおじいさんの部下たちが固めていたからですよ。そんなところを走り抜けられると本気で考えているんですか?」
 振り返りもせずに利一は言った。
「……あ、そういえばそうだった」
 通路から下を見たときのことを思い出し、今頃気がついたように恭夜は一人で納得していた。だが、下を固めているのならどうしてサラームはここにたどり着けたのだろうか。それとも、ライアン家の執事であるサイモンとサラームの間にはなにがしの協定が組まれているのだろうか?
 とはいえ、サイモンとサラームの関係など全く想像もつかない。石油がどうの……ということを迷惑そうに話していたサラームだ。ライアン家と懇意にしているとも思えない。ではどうやって下の包囲網を抜けてきたのだろうか。
「じゃあ、どうしてあの、サラームって男がここに来たんだ?サイモンさんの部下が下で取り押さえたりしなかったのか?」
 傘を持ったまま恭夜が訊ねても、利一は無言だ。しかも、利一の身体から何かピリピリとした雰囲気が漂い始めるのを恭夜は感じ取った。
 いつもと違い、別人のような利一だ。
 まるで、獰猛な野生動物が獲物を狙って息を潜めているようにもみえる。
「なあ……なあって……」
「知りませんよそんなこと……あっ!」
 利一の声に恭夜が前を見ると、リビングから廊下に出てきた黒い影が見えた。
 男は黒い上下の服を着ているのだが、どう見ても写真でしか見たことのない、特殊部隊の服装だ。ヘルメットを目深に被り、顔の半分をバイザーで覆っている。肘当てと、脛当てが両腕、両脚につけられている。編み上げの長靴はやはり黒く、鈍く光っていて、腰には警棒と銃、無線などがつけられていた。
「な……な……なんだよあれ~!」
 応戦すると言ったものの、ああいった男がうちに侵入して来るという経験など無い恭夜は傘を持ったまま叫ぶことしかできなかった。
 あんなのが六人もいるのか?……と、考えていると、ぞろぞろと同じ出で立ちの男がリビングから出てくる。
 お……隠岐が全員、面倒見切れるのか?
 あわあわと狼狽えながら、じっと前に立つ利一に視線を向けると、信じられない言葉を発した。
「あ、こんにちは……」
 恭夜はその言葉で、腰を抜かした。
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