Angel Sugar

「唯我独尊な男4」 第28章

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 疲れた……。
 恭夜は湯船に浸かりながら、ため息をついた。吐き出された息は、湯気で白くなっている周囲を揺らし、一瞬だけ視界が戻った。
 クリーム色のタイルで囲まれた浴室内は、目に優しい。ただ、浴室内が妙にだだっ広いのは閉口するのだが。
 熱い湯で身体がピンク色に染まっているが、ジャックの付けた痕が熱で更に浮き立ち、赤い斑点が肌に点在していた。その様は奇妙な伝染病にかかったようにも見える。あの男の絶倫にはいつも悩まされているが、済んだ後もこんなふうに頭を悩まされなければならないのが辛い。
 ぼんやりしつつ恭夜は目をしょぼしょぼとさせた。重症ではないのだろうが、ジャックはしばらく戻ってこられないだろう。僅かだが身体の休みがもらえそうだ。だが、あまりにも顔を見せないと逆に心配になるのは一応恋人だからだ。
 あいつ……。
 痛いの我慢してたのかな。
 今まで怪我をしたジャックというのを見たことがないのだ。自分の不注意で手を折ったと言う話しも聞いたことがなければ、捻挫をしたという話しも聞いたことがない。事故にあったこともなければ、風邪でダウンしたということもなかった。
 人間、生きていれば、何かと病院には世話になるだろうが、ジャックは皆無だった。だったというのは恭夜がジャックに出会ってからのことで、それ以前のことは恭夜も知らない。だが、昔に大きな怪我を負っていたとしてもジャックは話すことは無いだろう。ジャックとはそういう男だ。
 もし俺が、撃たれたら……。
 痛いって叫んで転がり回ってそうだなあ。
 恭夜は未だかつて撃たれたことはない。銃を突きつけられたことはあるが、ヒヤリとすることを除き、病院に世話になるような怪我を負ったことがなかった。だから撃たれたらどれほど痛いのか、知らない。
 一度、兄である幾浦に聞いたことがあった。
 幾浦は一度、太股を撃たれたことがあり、恭夜は純粋な興味から訊ねてみた。
 撃たれた瞬間は熱かったそうだ。あとは病院で処置を受けたあと、痛み止めが切れた頃にジクジクとした、疼くような痛みを感じたらしいが、耐えられないほどではなかったらしい。ひどい火傷を負ったようだとも言っていた。
 それでも病院でおとなしくしていたはずだ。元気そうではあったが、ジャックのように何事もなかったように歩き回り、セックスなどしようなど考えなかっただろう。
 ジャックは、痛みを感じないのだろうか?
 だから、ああいう、常識では考えられない行動を起こすのか。
 ――ま、いっか。
 ジャックのことを深く考えたところで、もともと常軌を逸している男だ。凡人である恭夜がいくら分析しようと所詮、理解などできない。今までも理解できたことなどなかった。
「そろそろ出ようかな。のぼせる……」
 恭夜は考えることを止め、湯船から出ると用意してあるタオルで身体を拭い、ローブを羽織った。冷蔵庫にビールが冷えていたはずだから、それを飲み、軽く胃に何か入れようと考えつつ、恭夜はバスルームから出た。
 まだ滴の切れない髪をタオルで拭いつつ、鼻歌交じりに恭夜が冷蔵庫に向かおうとすると、窓際に誰かが背をこちらに向けて立っているのが視界に入った。
 どう見てもジャックとは見間違えない禿げ上がった頭が、恭夜を驚かせた。この部屋はそれほどまでに誰でもが出入りできるのか。
 驚愕したまま、一瞬、硬直した恭夜だったが、窓際に立つ男は恭夜に気付いていないのか、相変わらず外を眺めている。恭夜は足音を立てずに、ベッドに畳んでおいた自分の衣服をそろそろと手にとって、バスルームに戻った。
 なんだ、あいつ……。
 おっさんくさかったな?
 ていうか、鍵、締めろよ俺っ!
 違う、俺は寝てたんだから、ジャックが締めて出ていってくれるのが普通じゃねえの?
 ムカムカと腹立ちを抑えながら、身繕いを終えて、もう一度部屋へと戻った。
 男は相変わらず窓の外を眺めている。
「……あ、あんた、誰だ?」
 恭夜の言葉に男は振り返った。
 頭はすっかり禿げ、部屋の灯りすら反射するほど艶やかなのだが、髭は生えている。くるりと毛先が巻いているそれは、何故か左右対称で、付け髭かと思わせるほど形が整っていた。やや落ちくぼんだ小さな目、鷲鼻の鼻、薄い唇に、ひょろりとした痩せた体型。濃いグリーンのスーツは仕立てがいいのか、男の痩せた身体にピッタリと合っていた。
「私はリーランド・パーキンス。君が幾浦恭夜くんだね?」
 リーランドと言った男は、恭夜の方をじっと見つめながらくるりと巻いた髭を指先で弄っていた。
「……は。はい。そうですけど」
「今、どういった事件がこの上の階で起こっているか聞いているかね?」
 相変わらず髭をクルクルと指先で弄びながらリーランドは問いかけてきた。
「いえ。聞かされていませんが……」
「そうか」
 リーランドは恭夜に聞こえるようなため息をついて、今度は手を後ろで組んだ。
「――実は今、このアメリカを揺るがす事態が起こっている」
 やや表情を曇らせてリーランドは言った。
「それ、俺が聞いてもいいんですか?」
 ジャックにしろテイラーにしろそう言ったことは口にしなかったのだ。恭夜もあえて聞くことをしなかった。ジャックはもともとそういうことを興味津々で聞かれることを嫌う。なにより、ジャックの仕事内容上、無関係な人間が訊ねていいことではない。それは恭夜も心得ていた。
「君の協力が必要なのでね」
「は?……俺、ですか?」
 恭夜はリーランドが何を言ったのか、一瞬、理解できなかった。
「そうだ。君だ」
 ニコリと笑みを浮かべるリーランドの表情は、どこか胡散臭い。
「……分析の仕事なら、お手伝いしますけど……」
 協力を要請されて想像できるのは、恭夜自身の仕事内容に関わることだけだった。
「いや、そういう協力ではない。……ところでパブロ・ブロックという男を知っているか?」
 何度も聞かれている名前だが、恭夜の記憶の何処にもそういう名前はない。
「知りません。聞いたこともありません」
「まあいいだろう。そのパブロだが、君と話をしたいそうだ」
 恭夜は知らないが、パブロという男は自分を知っているのだろうか。
 いくら考えても恭夜には思い当たることがない。
「その人、どうして俺と話がしたいとおっしゃっているんですか?」
 ジャックの言葉を信用すれば、恭夜は殺されるところだったのだ。電話で話をするくらいなら構わないが、対面は遠慮したい。
「それは私も知りたいことだよ。いや、それがどうしてなのだということを調べている時間も惜しい。だから君に頼んでいる」
 どこか高飛車な言い方をするリーランドに、恭夜は内心ではムッとしていたが、言葉にはしなかった。事件が解決していないのだから、皆、苛々としているのだ。
「話をするくらいなら、別にいいですよ」
 恭夜の言葉に、リーランドは一瞬ニヤリと口を歪ませたような気がしたが、気のせいだろうと思うことにした。
「そうか。そう言ってもらえると助かる。じゃあ行こうか」
 行こう?
 今すぐ……か?
 動揺している隙に、リーランドは立ち尽くす恭夜の腕を掴んで歩き出す。混乱していたが、話をするだけならいいか――と、考え、恭夜はリーランドに連れられるまま部屋を出た。
「あの……テイラーさんは?」
 階段を上がりながら、恭夜は聞いた。
「彼は他の仕事で手がいっぱいでね」
 振り返ることなくリーランドは言う。
「そうなんですか……。あ、ジャックはこのことを知ってるんですか?」
「彼は今、オペ中だ。だが、立て籠もりの事件は待ってくれない。事態はますます深刻になっていてね。今は、僅かの時間も無駄にできない。こんな状態で、全てをジャックに任せるわけにもいくまい。彼はただの交渉人で、私が指揮をとっているのだから、最終的な決定は私が下す」
 要するに、目の前を歩く男が責任者で、その部下がテイラー。ジャックは呼ばれた交渉人という関係になるのだろうか。
 恭夜はこういう現場の指揮系統がどうなっているのか、全くの素人で分からない。たとえ科警研で働いていたとしても、恭夜自身は事件とは遠いところに位置しているのだ。
「……俺にはよく分かりませんが、俺が協力することをジャックは了承してくれているんですか?」
 後で知らなかったとなると、何をされるのか分からない立場にいるのが恭夜だ。ジャックが了承しているのなら、いいのだろうが、あの男が自分の仕事に恭夜を絡ませることを許可するように思えない。
「君は、くだらないことばかり話しているね。私が指揮官だ。君に拒否する権利などここにはないのだよ」
 腹立ちを抑えたような声に、恭夜は掴まれていた手を振り払った。
「俺、もう少し考えます。協力できないと言ってる訳じゃないんです。ジャックが帰ってきてからにしてください」
 恭夜の言葉を聞いたリーランドは歩を止め、振り返る。
 その手には銃が握られていた。
「君に拒否することなどできないと、何度も話しているはずだ」
 硬直している恭夜の腹に押しつけられた銃身は、灯りに鈍く光っていた。
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