Angel Sugar

「唯我独尊な男4」 第31章

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 廊下に出るとすぐにテイラーの声だと思われる怒鳴り声が聞こえた。途切れながらもジャックの名前を呼んでいる。ジャックは、手術室の扉を開け、驚いた看護婦の制止を振り切り、手術台のある部屋の真ん中へ向かった。
「ジャック……っ……ジャックだっ!ジャックを呼んでくれっ!」
 テイラーは数名の看護婦に押さえられながらも暴れていた。下着一枚になっているのだが、両脚が血まみれだ。顔は真っ赤に染まっているのに、血の洗礼を免れた両脚の皮膚は逆にチアノーゼを起こしているのか、青紫になっている。
「落ち着いてくださいっ!」
 酸素注入をつけようとする看護婦を払い、テイラーは身体を起こした。
「ジャックっ!」
 手術台の脇に立つジャックにテイラーは一瞬、ホッとしたような顔を見せ、次に氷水でも頭から被ったような、凍えた表情になった。
「ああ、五月蠅い男だな。何があったんだ?」
 テイラーは震える手でジャックの腕を掴んだ。
「リーランドが……彼を……恭夜くんを……ぐはあっ!」
 ジャックはテイラーの言葉を途中で遮るように、鳩尾に拳をぶつけた。テイラーはそのまま気を失う。周囲の外科医や看護婦はジャックの行動に呆然となったまま、声も出さずに立ちつくしていた。
「さっさとオペをしてやれ」
 手術台に背を向けて、ジャックは振り返ることなくそう告げると、手術室を後にした。
 あのネズミ……。
 全てを聞かなくともジャックは理解した。ジャックが留守の間にリーランドは手柄を上げようと、どこからともなくやってきたのだろう。以前に息の根を止めておけば良かったのかもしれない。
「ジャック。着替えた方がいいのではありませんか?」
 階段を上るジャックを追いかけるようにデビットが手に衣服を持ってやってきた。それは手術を受ける前に身に付けていたものだ。ジャックが一番必要としていたものが上着に入っている。
「……ああ、そうだな」
 冷えた瞳のまま、ジャックはデビットから自分の衣服を受け取り、上着のポケットに入れていたモバイルを取り出して恭夜の状態を確認した。恭夜の身体にはNASAで開発された発信器を仕込んであるのだ。GPSで追える、本来は痴呆老人の為に造られたもので、身体の状態もチェックできるものだった。
 ジャックはモバイルを開き、祈るような気持ちで恭夜を確認した。
 ――生きている。
 やや胸を撫で下ろし、ジャックは息を吐く。
 恭夜が今いる場所は、パブロが立て籠もっている部屋だった。
 パブロの様子から、要求が叶えられたと同時に恭夜は殺されたのではないかと、不吉な考えに囚われていたが、今はまだ最悪の時は訪れていないようだ。
 ジャックは上着だけを羽織り、他の衣服を腕に掛けたまま、また足早に歩き出した。
「何か問題が起こったのですか?」
 デビットは、また階段を上るジャックに言った。だが、答える気にもならない。
 己の身体を怒りが支配していることを実感していたが、周囲に当たり散らすことはなかった。そんなことをしたところで、状況は変わらないからだ。
 いかにして恭夜を取り戻すか……それだけしか、ジャックの念頭にはない。過去あったように、例えもう一度、死体の山を築くことになろうと、ジャックは恭夜だけが生きて手の中に戻ればいいのだ。
 そのほかの人間などどうでもいい存在だった。
 特にリーランドは。
 無言で階段を上るジャックを相変わらずデビットはついてくる。背後から靴音が聞こえるだけでも今のジャックは腹立たしい。肩越しに睨み付けたが、デビットは肩を竦めることもなく、瞬きを数回させただけで、足取りを止めることはなかった。
「あ、恭夜くんの部屋には行かないのですか?」
 恭夜のいるだろう階で足を止めることなく、階段を上がる。
「そこにはいない」
 吐き捨てるように言い、ジャックが作戦室のある階まで上がると、バリケードの手前で銃を構えていた狙撃班の二人が驚いた顔でこちらを振り返った。ジャックの知らない男たちだ。
 もしかすると……。
 ジャックが交渉を行っていた部屋に入ると、予想通り職員のほとんどが入れ替わっていて見ず知らずの人間ばかりが座っている。その誰もがジャックの纏う怒りのオーラに怯えを成して視線を逸らせた。
 扉を開いたまま、ジャックは眉間に皺を寄せ、リーランドの姿を探したが、見あたらない。これも予想されたことだが。
「リーランドは何処にいるっ!」
 ジャックの一喝に、職員はビクリと身体を震わせ、無言で冷や汗を浮かばせた。
「お前達は一体どういうことに手を貸したのか分かっているのか?パブロの要求はたった一つ、幾浦恭夜という日本人を手に入れることだった。何故か……という、理由などどうでもいい。それがパブロの要求だ。交渉はこの要求をいかに回避するかを模索することだったと、何故、分からないんだ。リーランドの浅はかな行動で、パブロを二度と交渉の場につかせることができなくなったんだぞっ!」
 底冷えするような声で怒鳴られた職員は、貝のように口を閉ざしたままだ。
「――確認しなくても分かるが、副大統領はどうなったんだ?結局、解放されてはいないのだろう?この結末はどうなると思う?パブロは副大統領を拉致した段階で生きてこの病院から出ようなど考えてはいない。パブロは人質を殺し、自らも自殺するだろう。子供でもそのくらいの知能はあるぞ。ついでに話しておくが、この件は大統領自らが私に依頼をしてきたことだ。その私を差し置いて、リーランドの命令に従った奴ら全て、我が家に帰す気はさらさらない」
 ジャックは一目散に自分の席に向かい、椅子に腰を下ろしてマイクを付ける。デビットは戸口に立ったまま、職員を品定めしていた。
「パブロを呼び出せ」
 突き刺すような口調に、職員は慌てながらもパブロが立て籠もっている部屋の電話を鳴らしたが、呼び出し音が響くだけで、向こう側の受話器が上げられる様子はない。
 ……出ろ。
 一度でいい、電話口に出ろ。
 受話器は上げられた。だが、パブロの声は聞こえず、変わりに『ツー』という、電話線が切られた音が響く。パブロにはもう、交渉するつもりがないのだ。
 無言でジャックはマイクを外し、テーブルに設置されている電話で外線をかけた。
「ジャック・ライアンだ。ホワイトハウスに繋いでくれ。コードを今から入力する」
 ジャックが暗証コードを入力するために、番号をプッシュしていると、背後で職員達が部屋から逃げ出していく足音が聞こえたが、目を細めただけで振り返ることもしなかった。



「あんな奴ら殺されて当然だ……」
 左肩をパブロによって踏みつけられながら恭夜は答えた。
「どうしてです?ただ、巻き込まれた人間も殺されていいと?」
 パブロは冷ややかに言った。
「あそこにいた人間が、一体何をしたのか、あんた、知ってるのか?あんたの言う人間が誰なのか、俺は思い出せない。だけど、まともな人間は誰一人としていなかった……くっ!」
 パブロの靴底が左右に動かされ、撃たれた傷口から大量に血が流れ落ちた。痛みで意識が朦朧としつつも、恭夜は続けた。
「俺は……俺は、あの連中に薬漬けにされて、女のように犯されたっ!数え切れないほどなっ!俺はあそこで玩具にされていたんだよっ!いいか、良く聞けよ。あんたの言う、無理矢理協力させられていた男だって、俺を犯したはずだ。あいつらは、俺を犯すことで仲間意識を強めていたんだっ!誰も、逆らえなかった。無理矢理だろうが、なんだろうが、あんたの保証する男も同じだ。それは許されることか?」
 恭夜の言葉にパブロの表情がやや曇りを見せ、傷口から足を引く。だが、恭夜は身体を起こすことができなかった。痛みがひどく、身体が痺れていたのだ。
「副大統領……貴方はあそこであったことをご存じのはず。あそこで何があったのですか?本当の事を話してください」
 肩越しにパブロは振り返り、ソファーでグッタリと身体を沈ませているモーガンに問いかけた。モーガンは身体を一度、小さく震わせて、長く息を吐く。
「私はあの事件が終わった後で耳にしたことだ。しかも詳しいことを聞かされてはいない。大統領がどこまでご存じなのか……それも分からないんだよ。この件は聞くことも、問うことも許されない――というのが暗黙の了解でな。その理由すら、知らん」
「何故、誰も、事実を語らないのです。あのときの資料がほとんどない。いえ、全て処分されていました。私は残された小さな痕跡を追いかけて、ようやくここまでたどり着いたんです。なのに……ここまできて何も分からないっ!」
 パブロは苦悶の表情で吐き捨てるように叫んだ。
「……あんたのいう、無理矢理協力させられた男って……なんて名前だよ?」
 恭夜は床に転がったまま、パブロに問いかけた。
「トーマス・グラント。私の兄だ」
 パブロは恭夜の方を見ることなく呟いた。
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