Angel Sugar

「唯我独尊な男4」 第34章

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「記憶障害……上手い言い逃れですね」
 パブロは冷徹な瞳のまま呟いた。
「彼に当時のことを聞いたとしても、ほとんど覚えていないでしょう。もっとも、薬漬けになっていた男が詳細な内容を覚えているとは思えませんが、こういう男から何を聞き出したいんです?」
 ジャックが穏やかな声で問いかけると、パブロは銃を下ろし、ポケットから一枚の写真を取り出しこちらに見せる。写真には赤茶のくすんだ色の髪と尖った鼻を持った男が映っていた。穏やかな瞳は薄いグレーをしている。背景に馬や牛が映っていることから、牧場で映されたものなのだろう。
 ジャックはその男に面識はないが、見覚えがあった。
「見覚えはありますか?」
「ええ。彼が倒れている斜め向かいに倒れていましたね」
 ちょうど恭夜を助け出したときに死んでいた男だ。青黒い殴られた痕が肌のいたるところにあり、自分が仕掛けた方法で死んだのではないことだけは分かった。とはいえ、ジャックは当時恭夜のことしか頭になかった。どうでもいい死体には関心がなかったため、覚えていると言っても一瞬、視界に入った時のことしか記憶にはない。
「死因は?」
「専門ではないので詳しくは分かりません。ただ、酷いリンチにあったようには見受けられましたね。撲殺されたというのが正しいでしょう」
 ジャックの言葉にパブロは目を細め、口元を歪ませて笑った。
「貴方が手を下したのでしょう?」
「私が?まさか。他の仲間にリンチされたとしか思えないと、お話ししていますよ。身内の方なら遺体の引き取りをされたときに分かるはずです」
 血の臭いが立ちこめる中、死体があちこちに転がっていた。あの、死体がどう処理されたのか、ジャックのうかがい知るところではない。
「写真の男は公式には失踪とされているんですよ。だからあの家にいた事実は何処にも残されていません。覚えていらっしゃいませんか?当時の報道を。事件が起こった場所も、関係者も、全ての名前が伏せられていました」
 そうだろうと思っていたが、ジャックには興味がなかったため放置していたことだ。
「そうですか」
「どうしてなのか、事件に関わった貴方ならご存じでしょう?」
「分かりませんね」
「何故その場にいた貴方が分からないんですかっ!貴方も何か大きな存在に金を貰って口を閉ざすよう、指示されたのではないのですか?ここまできて言葉を濁さないでください」
 やや興奮したパブロは凭れているキャビネットを叩き、抑えられない怒りを表していた。
「いや、私は当時、交渉人として呼ばれ、ご存じのように無惨な結果に終わっています。事件のあと、私は仕事を暫く休み、彼の治療に専念していました。その間に政府は全ての書類を破棄しています。一介の交渉人がどれだけ騒ごうと、一度封印された問題の掘り起こしなどできませんよ」
 ジャックの目的は恭夜を救うことだった。それ以外はどうでもいいことなのだから、過去の掘り返しをしようという無駄な労力は使わなかっただけだ。
「……貴方がいくら撲殺だと言おうと、それを証明してくれる人も、なんの証拠もない。違いますか?」
「その書類を欲しいという要求をされたら、貴方の目的は達成されるのではないのですか?ここにいる日本人は貴方の要求を叶える何の助けにもなりません。もっとも、副大統領を人質に取られているのですから、電話一つでどんな書類も出てくるでしょう。違いますか?」
 ようやく新たな要求を引き出すことにジャックは成功したと思ったが、パブロは無言で恭夜の方を見つめるだけに留まった。
「貴方の要求を叶えるために私はここにいます」
 ジャックの言葉に、モーガンがチラリと視線を向け、逸らす。何か問われては困ることを未だに抱えているのだろう。いや、質問の矛先が自分に向けられることに恐怖を感じている様子だ。
「だから、なんです?私の要求はたった一つ。あの男がどうして死んだのか……という理由です。リンチなど信じられません」
「まだ、私が何かしたと、本気で考えていらっしゃるのですか?」
 普通の人間にはとても信じられないことだろう。だからこそジャックは揺るぎない意志を込めて『できない』と答えるのだ。できることでも、できないと、できないことでも、できると言い切ることで、事実にしてしまえることを知っているからだ。灰色の問題はいつまでも灰色だ。どれほど黒に近くなろうと、白に近くなろうと、灰色は決して一色にはならない。それもまた、交渉術の一つだ。
「貴方はただのネゴシエイターではないことは分かっています。電話の回線があれば大抵のことはこなしてしまう、人間離れした男ですよ。そんな男が、その場にいなかったから、私ではないと否定しようと、無駄です」
 パブロの瞳はジャックの目を見据えていた。こちらの嘘を必死に見破ろうとしているのだろうが、無駄なことだ。
「私はマジシャンではありませんよ。ただの交渉人です」
「……いいでしょう。そうしておきましょうか。貴方には何を言おうと、無駄でしたね」
 小さく深呼吸をして、自らの苛立ちを抑えているのが分かる。冷静であろうとしているのだが、最初見たときよりもパブロはストレスを感じていた。それはジャックに対する恐れが大きいのだろう。この場の主導権を取っているようでいて、そうではないことをパブロは気付いているのかもしれない。
 あの事件がなければ、パブロは今も寡黙で真面目なSPであったのだろう。主人に仕え、愚痴も言わず、淡々と己の与えられた仕事をこなす日々が、他人から見ると楽しみのない、いつでも自らを律し、時には命をかけて主人を守らなければならないと言う、緊張感の続くストレスがかかる仕事だと思われようと、パブロにとって至福の時だったに違いない。
 それら全てを捨ててまで行動を起こしたのは、あの写真の男がどうして死んだか……ということだ。だが、一番確実に真実を知るには、恭夜しかいないことをパブロは理解している。例え、政府が書類を用意しようと、そこには都合良く書き換えられた、紙くず同然の代物になっているに違いない。
 ただ、それが分かっていても恭夜をここから連れ出さなければならないのだ。パブロの意識をどうにかして恭夜から逸らさなければならない。
「彼に思い出させてください。あの場にいたのはその男だけです」
 パブロは取り憑かれたような目を向けながら言った。
「ということは、彼からは貴方が思う回答が得られなかったと言うことですね」
「その通り。この状況で嘘を付くとは思いませんが、そんなことはどうでもいいんです。どんな方法でもいい、その日本人に思い出させることです」
 ようやく気持ちが落ち着いてきたのか、パブロの口調から棘が取れていた。
「善処しましょう。その代わり、彼は殺さないという約束をしていただけますか?」
「……貴方の責任であの惨状が引き起こされていた場合、私の復讐はその日本人を殺すことでしか達成できないんですよ。約束などできませんね。そもそも、貴方から条件を出すことなど、この場でできると考えているのですか?」
 口元だけでフッと笑い、パブロは軽蔑するような目を向けた。
「痛みで麻痺している男が何かを正確に思い出せるとは思いませんが、先程クスリで眠らせました。効果が切れるまで暫く時間が必要ですね。こういう状態の男を無理に起こすことはできないでしょう。ところで、貴方はどういった情報を掴んだのです?」
 モーガンがまたジャックの方を見る。余計なことを聞くなと言わんばかりの視線だ。
 確かに今までは知らなくてもいいとジャックも考えていた。知ったところで過去のことだ。今更どうにもならない。にもかかわらず、事件はじわじわと広がりを見せている。こうなると無視できないだろう。
「……そのくらいなら、お話ししてもいいでしょう」
 パブロはキャビネットから離れ、下ろしていた銃をベルトに付けたフォルダーに戻すと、斜め向かいのソファーに腰をかけた。
「もともと、私もあの計画に参加しないかと、先程見せた男から誘われていたのです。彼はクリスと仮に呼びましょう。当時、私はすでに彼らとの付き合いを絶っていた。彼らの描く未来に疑問を抱いたことにも理由があります。ですので、逆にクリスに抜けるよう説得していました」
 フォルダーに納めた銃に片手をかけたまま、パブロは淡々と続ける。
「彼らは決して悪人の集まりではありません。みな、善良で仲間意識が強く、正義感に溢れた人間ばかりでした。ただ、正義感が強すぎて暴走してしまったんですよ。時折、感じませんか?どうしようもない、権力に屈するしかない、あの、虚しさを。弱者は生き残れず、富と権力を持った人間だけが優遇される。そんなアメリカでどれほど苦しむ人達がいるのか」
 同意を求めるようにパブロはジャックを見る。
「感じますよ」
 ジャックの答えにパブロは笑った。
「本気でそう思われていないことは分かります。貴方は富と権力を持った側の人間だ。そんな男が、溝で必死に喘ぐネズミの存在など気付かないでしょう」
「彼らのやったことを正当化する理由にはならないと思いますね」
「では、貴方のやったことは正当化できるのですか?」
 パブロは何とかジャックから答えを引き出そうとしているのがよく分かる。だが、こんな子供だましの誘導尋問には引っかかるわけなどない。
「私は交渉をしていただけですよ」
「自分達の不利になることは何も話さない……ということですか」
 嘲笑するような笑いを浮かべてパブロは言ったと同時に、ベランダで爆破音が響いた。それは爆竹が次々に破裂していくような連続性があり、しかも爆竹より威力が遙かに強く、部屋にあるテーブルやシャンデリアが左右に揺れた。
「業を煮やした奴らがトラップに引っかかりましたね。実力行使にでるということは、貴方も見放されたのでしょう。彼らは秘密が外に漏れるのを恐れています。副大統領も含めて皆殺しでしょうね」
 パブロはフォルダーから銃を抜き出し、副大統領のモーガンへと向けた。
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