Angel Sugar

「唯我独尊な男4」 第3章

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「キョウ坊ちゃんでも左様でございますか……」
 寂しげな表情でサイモンは言う。
「……ていうか、俺の言うことだって、あいつ全然耳に入ってねえよ」
 というより、自分の都合の良いことは例え小声であっても耳に入っているようなのだが、都合の悪いことは全く受け付けないのがジャックだ。いや、違う。自分のいいようにどんな言葉であっても脳内で変換するのがジャックという男だった。あくまで自分の解釈が正しい。それが全ての男になにを言っても聞き入れないのは当然だろう。
「では、キョウ坊ちゃんが先にライアン家に住まわれましたらいかがでしょう?そういたしますと、ジャック坊ちゃんも渋々ながら戻ってこられるだろうと私は思うのですが。こちらのお金はそれら諸々に対する準備資金とお考え下さい。足りないようでしたらいくらでもご用意させていただきます」
 テーブルに置いたジュラルミンのケースを差してサイモンは言った。だが、これだけ金が並んでいると、逆に現実感が失われてまるで物のようにしか見えない。
「え、俺?……俺の仕事は日本にあるから動けねえよ。両親だってこっちにいるし、兄貴もこっちだからさ。サイモンさんの気持ちもよく分かるつもりだけど、俺は無理。それと、金はいらないから持って帰ってくれよ。こんなもの置いて帰られたら、仕事から帰ってきたジャックに俺がなにされるか分からないって……。そのほうが心配だよ」
 慌てて恭夜がいうと、サイモンは更に条件を出してきた。
「分かりました。では、ご家族でこちらへお越し下さい。新しいご自宅を手配させていただきます。お兄さまのお仕事は……確か、海外に本社がありましたので、栄転としてこちらで働けるよう手配させていただきましょう。お父様が確かお体を壊されているご様子ですので、一流の医者を手配させていただきます。もちろん言葉のことでストレスを感じられるといけませんので、日本語のできる医者を揃えさせていただきます。このように幾浦家の生活の保障は全て私どもにお任せ下さいますか?」
 細い瞳がやや開かれて、じっとサイモンは恭夜を見つめていた。冗談ではなくて本気なのだ。恭夜だけならまだしもそんな恐ろしいことを兄どころか両親になど話せるわけなどない。
「あ、ちょ、ちょっと待ってくれよ。そういうのこそ無理だって。ていうか、俺の兄貴とか両親に話を先に持っていったりしてねえよな?」
 考えると恐ろしい。
 兄である幾浦の恋人は警視庁勤務で、移住などまず考えるわけなど無い。なにより兄はすでに本社から何度も転勤を命じられているのを断っているのだ。例え、利一の面倒も見ましょうとサイモンが言ったとしても、首を縦に振るわけなどない。ジャックと関わりたくないと思っている一番の被害者が利一だと恭夜は思っているのだ。
 その上、両親の方はまず恭夜の性癖を月日が経ったこともあり、ようやく理解してくれている様子だが、こんな馬鹿げた提案を聞かされたとすれば、父親はその場であの世に逝ってしまうに違いないだろう。いや、ジャックという人間を紹介した瞬間に、あの珍妙な言葉の餌食になって発作を起こして寝たきりになるだはずだ。考えなくても分かる。
「いえ。もちろんキョウ坊ちゃんの許可を得てからと考えていますので、ご両親やお兄さまにはまだお話をさせていただいていません。この後、お伺いする予定ですが……」
 サイモンの言葉にとりあえず、胸を撫で下ろし、浮いた腰をソファーに下ろした。
「行かなくていいよ。絶対断るに決まってるから……」
 はあ……と深いため息をついて、髪を撫で上げた。心臓に悪い会話がこう続くと、健康であっても病気になりそうだ。いや、精神的に参ってくる。
「本当に日本という国は考え方が閉鎖的で、非常に遅れていますね」
「……いや。なんていうか……ほら、金持ちの考え方は俺みたいな庶民に理解できないからさ。お国柄っていうやつだよ……」
 はは……と、恭夜は乾いた笑いで誤魔化した。
「キョウ坊ちゃん。私どもを助けると思ってキョウ坊ちゃんだけはこちらに来ていただけませんか?お仕事の方は以前勤めていらっしゃいました、市警の方へまたお戻りになれるよう手配させていただきます」
 サイモンの言葉に恭夜は首を横に振った。
 あそこには戻るつもりがないのだ。いろいろなことがありすぎて、とても同僚とは顔を合わせられそうにない。あの事件に巻き込まれていた間、彼らにどう情報が伝わっていたのかも定かではないし、わざわざ聞く気も無かった。だからこそ、先月、アメリカにジャックを探しに向かったときも、彼らに連絡を取らなかったのだ。
「キョウ坊ちゃん……」
「ごめん。気持ちは分かるんだけど……俺はあの職場には戻れないし、戻りたくない。俺は日本で生きていきたいんだ。別に、アメリカが嫌いとか、あのうちが嫌だとかそんなんじゃないんだ。ただ……今の俺にはここが一番安心していられる場所なんだよ。もちろん、一度捨てたつもりで日本から出たんだけど……。やっぱり俺は日本で生まれたんだな……って思うほど、ここが一番住みやすいんだ。それ、分かってくれないかな?」
「ニール坊ちゃんがいらっしゃらない今、ライアン家を継ぐのはジャック坊ちゃんです。もっとも、ご主人様は最初からニール坊ちゃんにそのような責務をお与えにはならないおつもりでした。ですので、ジャック坊ちゃんが拒否されようと家名は坊ちゃんの後ろにいつまでもついて回ります」
 淡々と、サイモンは言うのだが、それこそ、恭夜が聞いたところでどうしようもないことだ。ジャックがどういった判断をするのか、恭夜が決めることでもないし、あの男がどう考えているかなどもっと分からない。
「それ、ジャックに言ってくれないかな。ほら、ライアン家の家名に関しては、俺が聞いてもどうしようもないことなんだからさ。ジャックが跡継ぎだし、俺は……その、全くの部外者だから……」
 何となく暗雲が立ちこめているような気配を感じた恭夜は言葉を選びながらも、伝わってくるピリッとした空気を気にしないように明るい口調で言った。
「……ですので、それはキョウ坊ちゃんが当家にお越しになることで解決すると申し上げています」
 ……や……
 やばい?
 こいつら、もしかして俺を無理矢理連れて行こうとしてる?
「あっ……あのさ。この家って、どこにあるのか俺、全然知らないんだけど、隠しカメラがあちこちに設置されていて、多分、サイモンさんが来たことも、ジャック、どこかの国で見て気がついていると思うぜ。ほら、あいつ、このうちに自分の大事な物いっぱい置いてるだろ?防犯のためだと思うんだけど。ただ、俺、俺はさ、気持ち悪いからあいつに外せって言ってるんだ。でも、やっぱあいつって俺の言うことなんてこれっぽっちも聞かないんだよな……はは。だから何度頼んでも、知らん顔なんだ。だから……今もあっちこっちにカメラがあるんだよな……」
 身体を逸らせながらも、恭夜は上擦った口調でそう言った。するとサイモンはチラリと天井の隅を眺めてから視線を恭夜に戻した。
「音声はどうなのでしょう?」
 平然としながらも、どこかサイモンは慌てているように恭夜には見えた。
「……さ。さあ?俺、詳しいこと聞かされてないから……。ここって、俺がちょっと入院してるときにあいつが勝手に手配したマンションで、どんな内装工事をやったのか、知らないんだ。でも、あいつのことだから音くらい簡単に拾ってるんじゃないかな……。ていうか、読唇術もお手の物みたいだし……」
 マイクはないと聞いていたが、恭夜はそのことは知らせないことにした。その方がサイモンも滅多な行動に出ないだろうと踏んだからだ。
 もし、ここから無理矢理恭夜を連れ出したことをジャックが知ったら、例え身内であってもどういった行動をとるか、予想はつかない。とはいえ、サイモンやその父親であるヴィンセントの方がジャックという男が一体どういう男であり、息子であるのかよく理解しているに違いない。
「……困りました……」
 初めてサイモンは小さな息を吐き出して、肩を落として見せた。
「あの……だからさ。俺じゃなくてジャックを説得した方がいいと思うよ」
 無駄なのは分かっているのだが、恭夜にはそう言うしかなかった。
「ですから……ジャック坊ちゃんが全く聞き入れて下さいませんので、キョウ坊ちゃんにお縋りするしかないとお話しましたよ。本当に……お父上のヴィンセント様にその辺りはそっくりでございます。ただ、家名に関する責任感はヴィンセント様の方がお強いですが……」
 げ……
 父、そっくり?
 そうだったかな……?
 ジャックの父親であるヴィンセントはほとんど在宅することがなかったのと、あまりにも広い家だったのでいるのかいないのかも分からず、まず恭夜は会うことがなかったのだ。
 ていうか……
 ジャックそっくりな男になんて、あいたかねえ~。
 いや、この場合、ジャックが父親に似ているというのだろうか?
「はは……俺、ジャックのお父さんを見たことはあるけど、話したことないからよく分からないんだけど……まあ、血が繋がっているから似てるところもあるんだよ」
 はは……と、また笑うと、サイモンは怪訝な表情を向けてきた。
「話したことがございませんと?」
「え?」
 恭夜が、笑いを納めた瞬間、電話のベルが鳴り響いた。
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