Angel Sugar

「障害回避」 第1章

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 時折、フッと過ぎる。
 仕事をしているとき、会話を交わすとき、食事をしているとき。
 淡々とした日常がこれほど幸せなもだったのかと宇都木は心から感じる。
 言葉には表せない、胸がギュッと詰まるような、喉元が熱くなるような、時には涙まで瞳に浮かんでしまうような--そんな感動に似たものだった。
 宇都木がなにより望んでいた如月の側にいることができるからなのだろう。だが、同時に感じることがあった。
 不安だ。
 手の中にあったものが、指の隙間を通り抜けてこぼれ落ちてしまうような、感覚。別に如月の態度が冷たくなったというわけでもない。いつも如月は宇都木の方を見ていて、視線が合うと緩やかに笑みを浮かべてくれる。
 不安の原因はもともと宇都木が悪い方へと物事を考えてしまうところから来るのだろう。両親のことは不幸なことだったと今では宇都木も思っている。当時は随分自分を責めたような気がするが、もしあのとき、宇都木が分別の付く大人であったとしても、強固に信じている両親をとめることなどできなかったに違いない。
 信念とはそういうものだ。
 状況は違うが、宇都木にしても如月を諦めろと言われたところで素直に顔を縦に振ることなどできないに違いない。強い想いがそこにあるからだ。両親の思いもそれに似たものだったのだと今では理解している。
 だから、誰もとめられなかったのだ。
 そう……宇都木は自分に言い聞かせてきた。
 キッチンに立ち、窓から漏れる朝日に瞳を細めながら宇都木はいつもと変わりのない日に安堵していた。淡々と過ぎていく日々は、他の人からすると単調で、退屈なものかもしれなかったが、宇都木はこういった日常が欲しかったのだ。
 いつもと変わりのない朝を迎え、昨日と同じ眠りにつく。もちろん、隣には必ず如月がいる。この、飽きるかもしれない日々が、宇都木にとって心地よかった。
「おはよう……未来」
 ようやく起きてきた如月がキッチンに入ってきて、宇都木の後ろから手を回してくる。その手に己の指を絡めて、宇都木は笑みを浮かべた。
「おはようございます」
「朝食は何だろう……」
 後ろから覗き込むようにして、宇都木が作り終えたみそ汁の鍋を如月は眺めていた。
「おみそ汁と、卵焼きですね。子持ちししゃももつけましょうか?」
「いや……十分だよ。なにか手伝おうか?」
 あくびを堪えるような声で、如月が言う。まだ眠気が覚めていないのだろう。
「邦彦さんは椅子に座って新聞でも読んでいてください。すぐに用意しますので……」
「……そうか?じゃ、そうしようか」
 そう言って如月は宇都木に回していた手を緩やかに解き、ペタペタとスリッパの音を響かせて椅子に座る。テーブルには宇都木が朝起きてすぐに取りに行った新聞が置かれていて、如月はいつものように広げた。
「そうだ……。朝食を食べたら、久しぶりに出かけようか?」
 新聞を読んでいた如月がふとそんなことを言って、テーブルに朝食を運んでいる宇都木の方を見る。
「ええ。邦彦さんと一緒なら、私、何処に行くのも嬉しいです」
 ここしばらく、土曜を仕事で潰していた如月は、余程疲れが溜まるのか、翌日に当たる日曜に出かけたいと言い出さなかった。宇都木も如月の秘書であるから同じ行動をとっている。だから日曜は自宅でゴロゴロとするのがここ最近の休日の過ごし方だった。
 宇都木は如月と肩が触れ合うくらいの距離にいることができれば幸せであったので、それもまた満足ができる休日の過ごし方なのだ。とはいえ、二人で外に出ることも、またちがった楽しみがあり、如月の誘いはとても嬉しいことだった。
「しばらく出かけられなかったからな……。楽しめそうなところに行こうか?」
 如月は青い瞳を嬉しそうに細める。まるで海の色を思わせる瞳は、相変わらず宇都木を魅了していた。
「私は邦彦さんとなら、どこにでも行きます」
 真面目な表情で宇都木が答えると、如月はくすくすと笑った。
「じゃあ、童心に戻るか?」
「童心……ですか?」
 一体どこに行こうと如月が考えているのか宇都木には分からなかった。時々、如月は宇都木が想像もつかないことを口にするからだ。
「遊園地に行こう」
「え?」
 突然の言葉に宇都木は最初、冗談だと思ったが、如月は手元の新聞を広げて、とある広告を指さした。
「敵情視察だよ」
 そこには先日オープンしたばかりの遊園地の広告がでかでかと新聞一面に載っていた。
「あ、そういうことだったのですね……。はい。ご一緒いたします」
 現在、某プロジェクトが進んでいるのだ。かなり大がかりなプロジェクトで、新しいアミューズメントパークを建設するというものだった。だが、浦安にそれこそ知らない人間はいないだろうと言うほどの施設があるもの問題だった。大抵は、対抗するように建設されては食い合いになり、結局、浦安のテーマパークの一人勝ちになっている。
 食い合いせずに相互で客を呼び込もうというのが今如月が引き受けているプロジェクトだった。要するに近所の土地を買収し、似たようなものを作るのではなく、全く違うアミューズメントを作り、お互いに客を呼び合って相互にもうけようと言うのが主旨だったのだ。だが、こちらが水面下で奔走していたにもかかわらず、先にアミューズメントを立ち上げた会社があった。それが広告に載っている遊園地だった。
「まあ、それは口実で、とりあえず、童心に戻って楽しもうか?楽しみながら相手の戦略をチェックとしゃれ込もう」
 広げていた新聞を折り畳み、如月は既に用意されていた箸を手にとった。

 朝食を終えてから、車に乗って出かけたものの、途中かなりの混雑ですぐそこに見える遊園地にたどり着くまで随分と時間がかかった。余程はやっているのかと宇都木は驚いていたが、隣接している巨大テーマパークの客の車が多かったようで、こちらの目的としている遊園地はそれほど客は入っていなかった。
 駐車場も難なく停められたことからそれは分かる。
「なんだか……隣に作っても仕方ないだろうと言う程のものでしかないな……」
 どこか呆れたように如月は言って、ため息をついた。ここに来てすぐに、ぐるりと二人で遊園地内をブラブラと歩き、あちこちチェックしたものの、ただ、疲れるだけに終わったのだから、如月の言葉も頷ける。
「もう少し想像力を働かせる人間はいなかったのでしょうか?」
 この辺りは宇都木も厳しいのだ。
 他とは違うなにかを誘致するか、隣に隣接する巨大テーマパークとまるっきり違う物を持ってこなければ客は入らないだろう。ごくごく普通の遊園地など皆飽きている。それこそ、こんなところまでくる必要もない。遊園地は沢山あるのだ。
「はは。いや。まあ、私としては安心だな。こちらのプロジェクトはこんなものじゃない。逆にホッとしているよ。うちを出し抜こうとしたのはいいんだろうが、間に合わせの突貫工事もここまでくると金を融資した企業も泣けてくるだろう」
 ポケットから煙草を取り出して、如月は口に銜えると、喫煙所という場所に設置されている長いすに腰を掛けた。もちろん隣に宇都木は腰を下ろす。
「本当に……邪魔なだけですね」
 目の前に広がる遊園地は、その向こう側に見えるアミューズメントの建物に威圧されているようにもみえる。人が驚くようなジェットコースターもなければ、イベントもないようだ。あれほどの広告を新聞に掲載しているにも関わらず、人の入りは至って少ない。これでは、負債を抱えるのが目に見えている。逆に、ここが寂れてしまうと景色としてもあまりいいものではないだろう。
 ただ、一つ、観覧車だけは目を見張るものがあった。もちろん、作るなら作るで、日本最大というものを作ればいいのだろうが、それほどの大きさはない。とはいえ、確かにかなり大きなものだ。だが、せっかく大きなものを作るのであれば、もう少しここに金を使い、それこそ、世界最大とでも言えるものにすればよかったのだろう。
 ならば人も集まってくる。
「まあ……こっちは、ありがたいがたいね。うちは、海外の有名な仕掛け人を数名プロジェクトに参加させているから、こんなひどいものにならんだろう」
 煙草の煙を吐き出して、如月はどことなく嬉しそうに言った。
「ですが、ここの失敗でうちがあおりを食う可能性もあります。出資しする企業が弱腰にならないようにいたしませんと……」
「大丈夫だろう。こんなものは作らないさ。それより、なにか乗ってみるか?いろいろあっただろう。ほら、顎を打ち付けそうな乗り物や、眠くなりそうなジェットコースターもあったな。そうそう、どう見ても怖くなさそうな、しかも季節はずれのお化け屋敷もあったぞ」
 如月は笑いを堪えている。
「……ご遠慮します。あ、でも、観覧車は乗りたいです」
 大人の男性が楽しむには如月の提案した場所はどれも少々辛い。だが、観覧車くらいなら乗っても周りから妙に思われないに違いない。
 いや、宇都木は昔のある思い出があり、観覧車にだけは乗りたかったのだ。
「ああ……そうだな。観覧車か。いいね」
 煙草を灰皿に押しつけて如月は立ち上がった。
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