「障害回避」 第8章
真下が話していた通り、十一時頃バイク便が到着した。意外に大きな封筒に宇都木は驚きつつも、リビングまで持ってきて中身を確認した。すると、当たり障りのなさそうな東家の仕事での書類の束がぎっしり詰まっていて、これを広げていたら確かに如月の目を誤魔化すことができるだろうという代物だった。
あと、一回り小さな袋があり、そちらには衝撃的なものが入っていた。
テストの答案用紙だ。
誰のものであるのか、宇都木は名前を見なくても分かった。
恵太郎だ。
英語と数学が破壊的で、これを見たら、両親はさぞかし嘆くに違いないと思われるようなものだったため、宇都木は目眩すら起こしそうになった。一体どうしたらこういう点が取れるのか、逆に聞いてみたいほどだ。とはいえ、あの恵太郎だから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
そこには小さなメモも入っていて、真下のコメントが書かれていた。
部屋を掃除するおばさんが、鳩谷君のベッドの下から見つけたそうだ。
例え悪い成績であっても隠すのは男らしくないと話しておいたが、分かってくれたかどうか分からないね。
宇都木が家庭教師をしてくれていた時期は暫く成績も上向いたんだが、これでは元の木阿弥だよ。よかったら一人でできるテスト用紙でも作成してやってくれないか?
こっちの方が結構切実かもしれないな。
コメントを読んで、宇都木は強張っていた表情が緩み、笑いが漏れそうになった。真下の困った顔が想像できたからだろう。困惑した真下が見られるのは恵太郎がらみだけだった。いつだって、一切の事柄をスマートに解決する真下だが、こと、恵太郎に関してはもてあましている様子だ。
年齢の差も大きいのだろう。
宇都木にも恵太郎は不思議で、面白い子供であるのも一因だ。
恵太郎が暖かい家庭に恵まれて育ったわけではないのを宇都木は聞かされて知っている。にもかかわらず、恵太郎は根っから大らかというか、抜けているというか、しっかりしている部分がない。
いつも、ぼんやりしていて、放っておいたら空想の世界でいつまでも遊んでいる。かといって、甘やかされたわけでもない。なのにどうしてもう少ししっかりしていないのだろうか。
もともと持っている個性なのでしょう……。
恵太郎を思いだして、沈んでいた気持ちが少しだけ浮上してきた。以前、恵太郎の家庭教師をしていたときに使った教材はまだ書斎に置いたままになっているはずだ。それを取ってきて恵太郎のためにテスト用紙を作成するのも悪くないのかもしれない。
宇都木はようやく気持ちを切り替えることができた。
如月は朝から苛々としていた。理由は一つだ。いつもならすんなりいくスケジュールがあちこちつまずいていたからだった。決定的なミスはない。転ぶようなこともない。たとえて言うなら、道ばたでつまずきそうになって、ふらつきつつも体勢を整えられることができる状態と言うべきだろう。
だが、如月にはそういう状態が耐えられないのだ。いっそ、転んでしまえば楽なのだろうが、ギリギリのところで体勢が戻る。こうなると苛々も最高潮に達してしまう。
突然とはいえ、引き継ぎもなく引き受けてくれた、香月には感謝しているのだが、宇都木のようには当然いかない。分かっていたことであるが、秘書に振り回されることがこれほど苦痛だとは思わなかったほどだ。
アポイントの相手の名前を間違えたり、約束の時間を間違える。慣れていないとはいえ、どこで大きなミスをするのではないかと心配になって、いちいち、もと宇都木のパソコンに進入して、予定を確認しなければならないという二度手間になっている。
宇都木が初めて如月の秘書になったとき、まるで今までも如月の元にいたような仕事ぶりだったのだ。もっとも、宇都木は東家でも秘書をしていたのだから、段取りが慣れていると言えばそれまでだが、いまさらのように宇都木がいてくれたありがたみをヒシヒシと如月は感じていた。
一番、困るのは、アポイントを取った相手は、秘書が間違えたことであっても、如月の評価とみなすところだ。悪い印象を与えてしまうとそれを払拭するのにかなりの時間と労力がかかる。だからこそ、最初が肝心だった。
とはいえ、苛々を香月にぶつけることもできない。
宇都木の評判が高ければ高いほど、その後釜になりたいと思う人間が出てこないものだ。しかも、香月以外やりたいと志願した人間がいなかったというところからも、そういったことが予想できる。
だからこそ、如月もここは一つ、暫くは大目に見てやるしかないと自分に言い聞かせているものの、これで、仕事が停滞したら……という不安もあったのだ。
「香月!」
自室の扉を開けて、如月は香月を呼んだ。香月はつい先週までは宇都木が座っていたデスクで、必死にパソコンと格闘していたが、如月の声に顔を上げる。
「はいっ……」
「相手の名前の読みを間違っていたぞ。『きざき』ではなくて『きさき』だった。木崎さんにもう少しで失礼になるところだった。読みが幾通りも考えられる場合は、先に確認してくれ。些細なことだが人は呼び名を間違われると、例え初対面であってもいい気持ちはしない」
話ながらスーツを脱いでハンガーに掛けると、如月は椅子に腰を下ろした。すると香月は「申し訳ございません。必ず確認を致します」といって、頭を下げたまま上げようとしない。
「君も急なことですぐには慣れないと思う。悪いと思っているんだが、それでも仕事だ。厳しいようだが、ミスはミスになる。二度、同じことは言わせないでくれ」
ネクタイを少し緩め、如月は手を組んだ。
いつも見える景色と違うことがこれほど苛立つ原因になるとは夢にも思わなかった。
「本当に……申し訳ございません。二度とこういった間違いは起こさないように致します」
ビクビクとした様子で香月は言う。
「ああ。顔を上げてくれないか?きついいい方をしてしまってすまない。私も突然のことで動揺しているんだよ。悪かった……」
あたらないでやろうと思っていたにもかかわらず、思わず口にしてしまったことに如月は後悔していた。宇都木と同じようにできる人間などいないのだ。それを求めてもどうしようもないだろう。
香月は香月であり、宇都木は宇都木だからだ。
「いえ。これは私のミスですから……。今後、気をつけます。あの。四時から急に入った役員会が開かれますので、予定に入れてください」
「四時からは物産の重役と会う約束があったはずだ。取り消しか?」
「……済みません」
「顧客を優先しろ。役員会は欠席だ。ああいう席で、経常利益がどうの、損益があーだという、あとで書類で見て分かるようなことばかりしか話はない。いいな。重なった場合は顧客が優先だ。あと、顧客同士がぶつかるようなスケジュールは絶対に組んでくれるな」
「わ……分かりました」
冷や汗でも流しそうな香月を見ていて如月は不憫になった。
本人は必死なのだが、うまくいかないのが目に見えて分かる。プレッシャーもあるのだろう。香月は朝から身体もガチガチになっていたからだ。動作もぎくしゃくして、如月と目を合わそうとしない。
どうも、小動物を苛めているような気分になる。
「ランチを一緒にどうだ?」
少し余裕を持たせてやろうと、如月は声を掛けた。
「……え。あ。ランチの予定はどなたも入っていません。この時間は……」
キーを叩いて香月は如月の予定を確認している。
「違うよ。ランチを一緒にどうかと聞いているんだよ」
フッと笑って如月は目を細めた。
「えっ……あ……な……その……あっ……済みませんっ!」
なにを驚いているのか如月には分からなかったが、香月はテーブルに置いていた書類をバサバサと床に落として、また慌てたように拾い集める。
「おいおい……本当にしっかりしてくれよ」
如月は苦笑するしかない。
「はい。大丈夫です。ランチ……ご一緒させてくださるんですか。光栄です……」
手にいっぱい書類を抱えて、香月はようやく強張っていた顔に笑みを浮かべた。こうしてみるとなかなか可愛い顔立ちをしている。
「ビルの地下にはいろいろ店が入っているだろうから、香月くんの好きな店を予約しておいてくれ」
デスクに乗った己のパソコンを叩きながら、如月は言う。香月は嬉しそうに「分かりました」と爽やかな返事を返してくれた。
返事だけは気持ちがいいんだが……。
苦笑いするしかない。とはいえ、今、気になって香月の経歴を人事のデータにアクセスして確認すると、確かに推薦されてもおかしくないと思える立派なものだった。ただ、人事部長のコメントに、思わず笑い声を上げそうになった。
若干、力みすぎる傾向あり。
上司の指導によってよりよい方向に改善されるであろう。
面白すぎるぞ……香月。
また、必死に机にへばりついて書類と格闘している香月を見ながら、如月はふと宇都木の名前を打ち込んでみた。役員には人事データは開放されていて役員以下の経歴を見られるようになっていたのだが、今まで宇都木のことを確認したことはなかったのだ。
だが……。
宇都木のデータはどこにも見あたらなかった。