Angel Sugar

「障害回避」 第3章

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 帰りの車の中で、重苦しい空気が漂っていた中、最初は口を閉ざしていた如月がどこか仕方なさそうな口調で聞いてきた。
「……真下さんが一体、未来になにを言ってきたんだ?」
 ハンドルを握りながらも、その手には妙に力が込められていて、苛立ちに似たものがヒシヒシと感じられる。
「詳しいことはなにも聞いていません……」 
 それは本当のことだった。
 あの場では話せないことなのだから、余程込み入ったことに違いないと未来はすぐにピンと来たのだ。大したことのない用事なら真下がわざわざ電話をしてくるわけなどない。なにより真下は如月のことを評価しながらも、あまりいい感情は持っていないからだ。
 それでも電話をしてきたということは、なにか差し迫ったことも含まれているのだろう。急ぎでなければ休日に連絡など入らない。如月の耳に入らないよう、明日、彼の不在を狙って連絡してきたはずだからだ。
「私も同席してはいけないか?」
 心配そうに宇都木を気遣う如月の声に、申し訳ないと思いつつ顔を左右に振った。
「どうして?未来のことだろう?だったら私も知る権利はある」
「いいえ。私のことだと真下さんはおっしゃりませんでしたので、もしかすると以前私が秘書として働いていたときのことかもしれないんです。そうすると東家の内部事情に関わることですので、邦彦さんにお話しすることはもちろん、同席するお許しすら出ないと思われます」
 違う。
 自分自身のことだというのは分かっていた。
 だからこそ、宇都木は如月に知られたくなかったのだ。
 如月には両親が亡くなった詳しいいきさつを話していなかった。いや、全くといって話していない。
 奇妙な宗教に取り憑かれ、餓死してしまった二人。
 そんな話をどうしてできるのだ。
 両親が亡くなったとき、宇都木は小さかったが、なにも口にしなくなった両親を必死に説得しようとしたのだ。子供だからもちろん、大人を説得できるいい言葉など出てくるわけなどない。それでも食べ物を口にしなければ人は生きていけないことを理解していた。空気だけで生きていけるわけなどない。なのに両親はそれが穢れた世の中から救われる唯一の方法だと信じていた。
 分からなかった。
 いくら聞かされても宇都木には頷けなかった。
 家の中からお金が無くなると、宇都木はまるで野良犬のようにゴミを漁るために毎日出かけていった。その頃には両親はもう動けなくなっていたからだ。ガスも電気も止められていた。火を使う料理は宇都木が小さくてできなかった。水道だけはかろうじて蛇口を捻ると水が出たが、両親はそれすら口にしなかった。
 漁ったゴミの中から食べられそうなものをより分けて、両親の口に押しつけた。母親はやんわりと押しのけ、口に入れることはなかったが、父親にはそのたびにはり倒されて、打ち身を作り、ボロボロになった畳で擦り傷を作っていた。
 それでも……
 それでも宇都木は毎日ゴミを漁りに出かけたのだ。
 近所の人がひそひそとこちらを見て、関わりを避けるように身を隠す。誰も助けてくれそうにない状況だから、自分が何とかしなければならないと、幼心に思ったのだ。親類がいたはずなのだが、顔を思い出せない。様子を見に来ることも無かったはずだった。誰が親類なのかどうなのかも、宇都木は覚えていない。
 当時通っていた小学校の担任が来たことは覚えている。先生に助けてもらおうと、宇都木は駆け寄ったのだが、ぼさぼさの髪と汚れきったボロボロのシャツ。穴の空いた靴を履いていた宇都木を見て、女性教師は逃げ出した。両親の妖しげな説教と、宇都木の姿が怖かったのだろう。中身は変わっていないのに、身なりがとても見られたものではなかったから、中身まで服そうと同じように変わり果てたのだと思ったのかもしれない。
 どこにも助けを求められず、途方に暮れながらも、宇都木はそれでも食べ物を毎日探し歩いていた。
 だが、両親は死んだ。
 いつ息を引き取ったのか、よく覚えていない。
 食べ物を口にしなくなってから、両親の身体から体温が無くなったように、触れるといつも冷たくて、起きていても目を開けることがなかったからだ。歩き回ることなど無く、宇都木に罵声を浴びせる以外の言葉を発しない。もちろん、動かないのだから風呂にも入らないし、服も着替えない。
 ただ、壁に凭れ、天井を見上げながら何かから救われるのを待っていた。
 宇都木には未だに両親の考え方を理解することなどできない。だが、そういう両親から生まれた子供はどう思われるだろう。宇都木が怖かったのはそこだった。人目を気にして、いい子に徹しようとしたのは、両親と同じように思われたくなかったからだった。
 如月は宇都木の両親が亡くなっていることは知っているだろうが、どうして亡くなったのかということを、宇都木に訊ねることはなかった。例え、問いつめられたとしても話すことなど出来ないし、絶対に話さない。
「……東家か……」
 遠いところを見ながら如月は面白くなさそうに言った。
「はい。ですので、本当に申し訳ないのですが、内部事情に関わることだとすると、邦彦さんであっても、私は……お話ができないと思います……」
 こんなふうに如月に言いたくはなかった。如月に対しては包み隠さず自分の全てをさらけ出してしまいたいと宇都木は思っている。だが、世の中には口にしないほうがいいこともたくさんあって、今のことはそれに該当するだろう。
「ああ……もちろん。私も未来の立場を分かっているから、無理に聞き出そうとしていたわけじゃないさ。ただ、ね。もし、お前のことだったら、私は知っておきたいと思ったんだよ。未来はすぐに一人で悩むだろう?……そういう未来を私は恋人として見たくないし、一人で悩むより、二人で考える方がいいと思ったんだ。無理を言って悪かった」
 如月の優しさに心を痛めながらも、宇都木は「ありがとうございます」とだけ返事をした。なにか他の言葉を付け加えてしまうと、嘘がばれてしまうような気がしたからだ。
「まあ……遅くならないうちに帰って来いよ。一人で帰るようなことになるのだったら何時でもいいから必ず私に電話をしてくれ。迎えに行くから……」
 宇都木はこくりと頷き、話を終わりにした。



 東家に送ってもらうと、門のところで下ろしてもらい、如月が本当に去っていくのを確認してから宇都木は屋敷へと向かった。ちいさい頃、東に手を引かれて門をくぐり、屋敷に案内されたが、当時、宇都木は言葉を失っていた。
 東や都は本当に優しい人間で、忙しい中から時間を作り、宇都木を愉しませようといろいろと手を尽くしてくれたことを覚えている。それでも、一度、失った、人を信じる気持ちが幼い宇都木を頑なにさせていて、心を開くことはできなかった。
「宇都木です。夜分遅く済みません。真下さんから連絡を受けて参りました」
 屋敷の扉に設置されたインターフォンに向かって宇都木が言うと、すぐに扉は開けられた。そこにはいつまで経っても変わらない正永の姿があった。
「お久しぶりでございます。どうぞ、真下さんがお待ちです」
「ええ……。正永さんもお元気そうでなによりです……」
 軽く会釈して、案内されなくても分かる廊下を宇都木は歩いた。真下の部屋までもうすこしだ。
 宇都木がここにきてようやく落ち着いたのは一年ほど経った頃だった。東と都が誕生日プレゼントだと言って本物のポニーを買ってくれたのだ。ポニーの瞳が優しくて、触れているだけで癒された。勉強の合間にポニーの世話をすることが宇都木の安らぎになったのだ。いつ、おとずれたのか覚えていないが、ポニーの世話をしていると、不意に自分が恵まれている幸せが身体を覆って、感謝で涙が流れた。止めても止まらない涙と嗚咽は、執事である正永を驚かせたものだった。ようやく、声が出るようになったのもその日からだった記憶がある。
 私はいつもここに助けられてきた……。
 人に頼ることなく生きていこうと思いながらも、人間は一人で生きていけないことをここで学んだのだ。
 感慨深い思いを胸にして、宇都木は真下の部屋の扉をノックした。
「宇都木です。入って宜しいですか?」
 声を掛けると、いつもの真下の声が響いた。
「ああ、開いているよ。入ってくれていい……」
 ノブを回して中に宇都木が入ると、真下はいつだってそうしているのだが、やはり小さな応接セットのソファーに腰を掛けて、紙コップにコーヒーを作っていた。
「すまないね。休日のところ呼び出してしまって……ああ、座ってくれ」
 促されるまま、宇都木は真下に対面するように向かい側のソファーに腰を下ろした。
「……なにか深刻なことでもあったのでしょうか?」
 世間話をするのも、今日はとてもできそうになく、宇都木はいきなり本題に入った。
「……ああ。問題が少々大きくなりそうだ」
 眉間にやや皺を寄せて、真下は今作っていたコーヒーを差し出す。
「どういったことでしょう……」
 差し出されたカップを両手で掴み、宇都木は真下の方を向いたまま問いかける。
「宇都木の……そうだね、昔家族で住んでいた土地は、いま野ざらしになっている。宇都木がついこの間、草が沢山生い茂るところで寝ころんでいたのを知った東様が、そろそろあそこに家を建てて、他の人間に渡してしまった方が宇都木のためだろうと言い出したんだ。それで、あそこは宇都木の名義ではなくて、東家の名義になっていたものだから、宇都木に断ることなく、こちらで業者を手配して整地することになった」
「……ええ……。そ、それは構わないのですが……」
「整地していて妙なものが出てしまったんだ」
 真下の表情が曇る。
「……妙な……ものですか?」
「人骨だよ。宇都木。人の骨が出た」
 真下の声が、遠いところから聞こえているように宇都木には思えた。
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