Angel Sugar

「障害回避」 第30章

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 皿が擦れあうような音が僅かに聞こえ、宇都木は目を覚ました。どこかで見た天井だが、いつもみているものとは違う景色がぼんやりと視界に入り、宇都木は目を擦った。
 ここは……。
 顔だけを横に向けると、少年の後ろ姿が見えた。背の低い少年は部屋にある小さな丸テーブルに盆を置いていた。柔らかい黒髪に、狭い肩幅。辛子色のセーターに、ストレートのジーンズを穿いている。
 恵太郎……さん?
 宇都木は身体を起こそうとしたが、できなかった。変わりに声をかけようとしたが、言葉ではなく、咳を発した。
「あ、おはようございます。真下さんに言われて、朝食をお持ちしたんですけど、食べられます?」
 恵太郎は振り返り、はにかむような笑顔を見せた。今の宇都木には眩しすぎる笑顔だ。ここに恵太郎がいるということは、東家に自分はいるのだろう。いつ、連れてこられたのか覚えてはいないが、ここは真下の部屋なのだ。
「いいえ……」
 宇都木は恵太郎から顔を逸らせ、目を閉じた。目の奥が疼き、痛みを訴えている。頭痛がひどく、気分が悪い。胃に何も入っていないのに吐きそうだ。
「僕、真下さんに頼まれて……その……。真下さんはお仕事忙しいらしくて……」
 おどおどした恵太郎の口調に、宇都木は苛立ちを覚えた。恵太郎は悪くない。ただ、己自身が追いつめられすぎて心に余裕がないのだろう。優しく接してやりたい、気遣ってやりたいと考えるのに、できそうにないのだ。
「私のことは構わないで、この部屋から出てくださいませんか?」
「朝食、少しでも食べてください。宇都木さん、ものすごく痩せたし、顔色も悪いから……僕、心配で……」
 恵太郎の言葉は今の宇都木には、その一言一言が棘のようなものだった。耳に入るだけで身体が痛む。
 誰かに気遣われるのが嫌だった。
 はれ物を触るような態度も――なにもかもだ。
 恵太郎が何かを知っているとは思わない。なのに、宇都木がなにをしたのか、なにをしようとしていたのか、もしかして真下が恵太郎に話したのかもしれないと邪推してしまう。
 例え恵太郎が知っていたとしても、自ら招いたことなのだから、宇都木自身は納得していた。にもかかわらず、不幸にでも見舞われているような同情は、余計に宇都木を惨めにさせる。
「……心配なさらなくて大丈夫ですよ。暫くこうやっていれば楽になりますから……」
 様々な感情を抑え、宇都木は目を開けると、いつも通りの口調で恵太郎に言った。
 唇が震えているのが分かる。胸の奥にいっぱいに詰まっている何かが溢れてしまいそうなほど、胸が痛む。それでも取り繕わなければならないときがある。
「何か口にしないと体力も付かないし、一口でもいいから食べて欲しいんです。少しずつでも食べたら、きっと元気になれると思う」
 恵太郎はニコニコとした笑顔を宇都木に向けていた。
「出ていってくださいと、お願いしています」
 宇都木の言葉に恵太郎の笑みが曇る。自分の言った言葉を頭の中で繰り返し、気に障った言動がなかったかどうか確認している顔だ。そんな恵太郎を見ているだけで、理由のつかない焦燥感が宇都木を苦しめる。
 恵太郎に非はない。
 単に宇都木が卑屈になっているだけだ。
 父親を早くに亡くした恵太郎が、こんなに綺麗な笑みを浮かべることができる。きっと、父親が亡くなるまでの間、沢山愛されてきたのだろう。母親がいなくとも、それを補うほどの愛情を傾けてもらったからこそ、浮かべられる笑みだ。
 純粋で、汚れのない笑み。
 宇都木には決して与えられなかったものを沢山持っている。
 立場を比べても仕方がないのに、自分と恵太郎を比べてしまう。
 腹立たしい……。
 見ているだけで嫌になる。
 悪気はないのだろうが、恵太郎がそこにいるだけで耐えられない。
 そんなことを考える自分に宇都木は一番嫌悪を感じ、消してしまいたかった。
「……宇都木さん……あの……」
「本当に体調が悪くて……。きつい言い方をしてしまいました。ごめんなさい。一人にしてくださいませんか?お願いですから……」
 絞り出すように言った宇都木の言葉に、恵太郎は哀しい表情で小さく頷くと、部屋を出ていった。自分の心の狭さに、宇都木は苦痛で身が捩れそうだ。
 どうしてもっと優しく言えなかったのだろうか。
 本当に心配してくれる相手に何故、感謝できないのだろう。
 乾いたはずの涙がうっすらと瞳を覆った。何もかも壊してしまいたい衝動が身の内にあって、身体の内部から浸食しているような気分に陥っている。
「未来……起きたのかい?」
 恵太郎と入れ替わりのように真下が部屋に入ってきた。いつも通り穏やかな瞳を眼鏡の奥に見せている。緩やかな動作で、宇都木が横になっているベッド脇にくると、側にあった椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「鳩谷君が心配していたよ。未来は本当に体調が悪そうだってね。私も昨日そう思ったが、明るい中で見ると、余計に分かるよ。ちゃんと食事を摂っていたのかい?」
「……ええ。それより、私はどうしてここに……」
 話題を変えるように宇都木はそう言った。
「昨日の夜遅く、邦彦が連れてきたんだよ。暫く仕事が忙しいから、未来を預けに来たと言っていたね。仕事が終わったら迎えに来てくれるだろうから、暫くはここで身体を休めているといい」
 やはりそうだったのだ。
 もしかすると口にした飲物に何かクスリが入れられていたのかもしれない。
 宇都木は目を伏せて、ギュッと毛布を握りしめた。自分でも分かるほど指が細くなっている。
「私は……もう……」
「未来、邦彦から事情は聞いている。いや、正直に話さなければ私は預かれないと言ったからだが」
 如月が宇都木に何があったのか、真下にだけは話しているだろうとは予想していたが、こう、はっきりと知らされると、やはりショックは大きい。
「未来……」
 黙り込んでしまった宇都木に、真下は柔らかい物腰で声をかけてきた。だが、宇都木は答えられなかった。責められるのならまだいい。だが、こんなふうに優しく接されるとどうしていいのか分からなくなるのだ。 
「未来はようやく自分の恋を叶えたのだろう?」
 なのにどうして、他の男と寝られるのだと責められているのだろうか。
「……そうだね。未来は人の愛し方を知らないし、愛され方もよく分かっていない。だが、ようやく未来が求める相手と心が通じ合った。未来が願っていたものの二つが叶ったわけだ。未来が誰かを愛すること、人に愛されること。いや、邦彦に愛されること……だ。でもね、未来。今の君は一方的に愛そうとしているだけだ。それは愛じゃない。違うかな?」
 宇都木は真下が何を言おうとしているのか理解できなかった。淡々と語られる言葉は、どれもこれも宇都木を否定しているだけのように聞こえる。
「分かりません……」
「いや、未来は分かっているはずだ。ただ、できない……いや、怖いだけなんだよ」
 宇都木が毛布を握りしめている手に、真下は手を重ねてきた。温かい手の平は、宇都木の気持ちを少しだけ和らげる。
「未来……。確かに、一生口を閉ざし、嘘を付く方が相手のためになることもある。だけどね、そのことで相手に胸を張れない愛し方をするくらいなら、吐き出すしかないんだ。己の胸の内を吐き出すことも時には大切なことなんだよ。全てを一人で背負うことなんて人間にはできないんだからね。未来はすぐに一人で解決しようとしてしまう。それがいいときもあれば悪いときもある。今が悪いときだ」
 言い聞かせるようにはっきりとした口調で、淡々と、それでいて抑えた声色で真下は続ける。
「でも……私は……」
「いいから聞きなさい。愛する人が傷つくようなことを、誰が望む?邦彦は望んだか?望んでいないはずだ。未来自身が納得しているからいいということでは、決してないんだよ。それは邦彦にとって辛いことだろう。違うかい?立場を逆にして考えてみるといい。邦彦がお前のために意に添わないことをしたら、未来は嬉しいかい?例え、未来のためであっても喜べないはずだ。自分にとっても嬉しいことは相手も嬉しい。相手が悲しむときは自分も悲しい。分かるだろう、未来」
 宇都木は唇を噛みしめて、言葉を呑み込んだ。
「――未来はようやく愛することを覚えた。今度は愛する相手に寄りかかることを覚えなくてはならないよ。それができて初めて互いの間に信頼が生まれるんじゃないのかな。信頼は絆だ。それは愛情と一緒に育てていくものだよ」
 どうしていいのかもう宇都木には分からなくなっていた。
 如月のことを愛すれば愛するほど、自分が盲目になっていることだけは分かる。周りが見えず、何が正しいのか、そうでないのか、判断ができなくなってしまうのだ。最後には後悔という文字しか残らない。
「私は……誰も愛さない方がいいのでしょうか?それとも愛する資格が与えられていないのでしょうか?」
 ようやく顔を上げて宇都木は真下の方をみた。真下の瞳は優しげに細められている。温かい、包み込むような笑顔だった。
「愛することに資格なんてものはない。ただ、不器用な人間が多いだけだ。それは未来だけじゃないさ」
 真下の言葉に、宇都木は涙がこぼれた。
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