Angel Sugar

「障害回避」 第41章

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 相場は問題なくいつも通り、可もなく不可もないという状態で動いていた。けれど、桜庭グループが保有する株が午後から異様な動きを始めた。全体的に見れば、どこが保有していてもおかしくない銀行株や、建設会社の株ではあったが、同時に、桜庭自体の株が急激に取引数を増やし、価格が下降していく。
「動き出したな……」
 如月は会議から帰ってきてから、相場を確認して予定通りにことが進んでいることを安堵しながらも、成り行きを見守っていた。なにか不安材料を流したことは確実だ。それがなんであるのか、すぐには分からなかった。だが、株式ニュースで如月はその事情を知った。

「午後から桜庭の株価が乱高下しつつ、値を急激に下げているのは、一部の投資家の間に流れた粉飾決算の疑いからです。事実は未確認ではありますが、かなり有力な情報筋から流れたらしく、今後……」

 粉飾決算とは企業会計で、会社の財政状態や経営成績を実際よりよく見せるために、貸借対照表や、損益計算書の数字をごまかすことだ。もし本当にそうなら、企業としての信頼が相当ダメージを受ける。けれどこれが事実ではないことを如月は知っていた。
 ものすごいことを仕掛けたな……。
 クロス取引で相当数の株を価格を少しずつ下げて売り、後で少しずつ値段を上げながら買い戻す方法をとるつもりなのだろう。ディーラーの顧客が多ければ多いほど、こういう仕手がなりたつ。
 例えば資産を預かる投資家をAとBにわけ、Aを儲けさせBに損をさせる。けれど、そのあとBを儲けさせAに損をさせる。これをディーラーは利用して、最終的にやや損をさせる方法をとり、手数料を稼ぐ。株で十億損をしても、その後九億得をすれば、株の魅力に取り憑かれ、プラスマイナスをすれば損をしているにもかかわらず、儲かったときの勝利感が忘れられられないのだ。こうなるともう株から手を引けなくなるのだ。本当に腹黒い奴がその背後にいて、差額の一億を懐に入れていることに気付かないのだが。
 金が有り余っている投資家というのは株をゲームだと考えている。大抵のパーティでは、あの株で損をした、得をしたという話でもちきりだ。そう、彼らの間では株は金持ちの一種のステイタスと見なされている。
 株でもうけようとそればかり考える人間はまず成功しない。身ぐるみ剥がれて一文無しになるのがおちだ。金は金のあるところに集まる。少しばかり成功したからと言って手を出さない方がいいのが、株というギャンブルだろう。
 そう、株は恐ろしい。
 株価が少し下がっただけで、企業のイメージにダメージを与えることができる。株価の動向を見て取引を継続するか、手を引くか――どの投資家も、問題の株を保有する会社も、市場を取引の判断材料としているのだ。
 自社株が事実無根の情報で下がり続けるのを、このままにはしておけないだろう。今日中に桜庭の総裁が動く……。そうすればこちらのものだった。
 如月は香月に車を用意させると、部屋を出た。
 最後まで見届ける必要はなかったからだ。



「真下様。東様がお呼びです」
 正永が部屋に入ってきて、告げた。
「ああ……そろそろだと思っていたよ」
 真下は剣と宇都木に待っているように告げ、正永とともに部屋を出て行った。
 桜庭の株がこれ以上下がると、本当に大変なことになる……その件で、東から呼び出しが入ったのだろう。
 宇都木は不安を隠しきれない表情で、真下が閉ざした扉をじっと見つめていた。
「宇都木」
 株価を見ている剣がパソコンのモニターから顔を上げることなく、宇都木に言った。
「はい……」
「不安と言うより、申し訳ない……という顔だな」
「……私はいつまでたっても東様や真下さん……そして皆さんにご迷惑をかけるばかりで、その恩をお返しする機会に恵まれません。それが……本当に申し訳なくて……」
 宇都木は目を伏せて、小さな声で言った。
「人間は生きているだけで周囲に迷惑をかける生き物だ。それが性なのだから、しかたないだろう?」
「……東家に引き取られ、大切に育てて頂きました。だから小さな頃から、この東家に……いいえ、東様や皆様から頂いた恩を返したいと……そう、願ってきたのです。なのに今の私は……自分の幸せを叶えることばかり考えて、この家を飛び出しました。なにも……返せないうちに。そんな身勝手な自分が……許せない。けれど邦彦さんを愛している自分の気持ちも変えられない」
「東様が願うのは、お前の……いや、私たちすべての幸せだ。その幸せがどこで得られるのかは、本人が選択することであって、東様が決めることではない。違うか?」
 剣は淡々とそう告げた。
 そう、東は恩を返してもらうことを望んでいるのではない。それを宇都木はよく知っている。
「はい」
「だったら、何を迷っているんだ?」
 心を見透かした剣の一言に、思わず宇都木は身体を強ばらせた。
 剣は不思議な男なのだ。
 人の心の奥底を見通す力があるのではないかと思う瞬間がよくある。
「宇都木」
「……」
「くだらないことに囚われ続けるだけの人生で終わりたいか?お前はあの邦彦とともに生きていく道を選択したのだろう?東様はそのお前の選択を間違っているなどと非難したことはないぞ。お前が幸せなら、それでいいんだ。なのにせっかくお前自身が努力して得た幸せをお前が壊す気でいるのか?」
「……いいえ」
「嘘ばかり口から出していないで、もっとよく考えて答えを出すんだな」
 剣はそれきり口を閉ざした。
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