「障害回避」 第5章
「一つだけお願いがあります……」
重い口を開いて、宇都木は真下の方を向いた。
「……言わなくても分かるつもりだが、とりあえず聞くよ」
真下は自分の眼鏡を外し、ポケットからハンカチを取り出してガラス面を撫でる。視線はテーブルの方へ向けられたまま宇都木に合わせられることはなかった。それは言いにくいことを口にしようとしている宇都木に対しての真下なりの優しさなのだろう。
「……邦彦さんに黙っておいてください」
どんなことがあっても、自分の過去を知られたくなかったのだ。
「邦彦に事情を話さずに、宇都木の秘書という職務を一時的であったとしても放棄させることなどできないよ。宇都木の秘書という仕事についてどうするかというのは邦彦が決めることだからね。上司は邦彦であって、私じゃないんだよ」
目を細めて優しげな表情のまま、眼鏡を拭いつつ真下は言った。
「……分かっています。ですが……そういったことを話して邦彦さんを心配させたくないのです。特に、今一番大切な時期ですし、邦彦さんの集中力を削ぐような原因が私でありたくないんです」
訴えるように宇都木は真下の方を見つめ続けた。すると手に持った眼鏡の方を見ていた瞳がチラリとこちらを向く。
「どちらにしても、宇都木が邦彦の秘書を、東家からやめさせることになると、それだけであの男は動揺するだろうと思うがどうだい?いや、動揺ではないね。一体どういうことなのだとすぐに詰め寄られるのは目に見えているよ。こういったことをはぐらかす適当な理由など、私には思い浮かばないんだ。どう思う?」
真下のことであるから、耳にすれば、そうか、そういうことかと納得させることのできる理由をいくらでも如月に告げることなど簡単にできるに違いない。だが、こういって宇都木を納得させようとするのには、暗に事実を邦彦に話してしまいなさい……と言っているのだ。真下の言わんとしているところは分かるつもりだが、これに関しては譲れない。
宇都木は、真下が以前、如月に対して生い立ちを話して聞かせたことを知らなかったのだ。
「お許し下さい……」
膝に手を置いて、拳を作ったまま宇都木は身体を強ばらせた。
「宇都木」
「……どうしても嫌です」
顔を左右に振って頑なに拒否して見せた。
「宇都木、いつまでも隠し通せることではないだろう?どうせ邦彦も知るぞ。新聞を読んでいるのなら、いずれ目にする。もっとも、宇都木の名前は表には出さないよう手配するが、気づかない保証はないよ」
「……もし、それで知られててしまったら……。話します。それではいけませんか?」
本当にそんな時が来たとして、宇都木が話せるかどうかは分からない。だが、とにかく時間を稼ぎたかった。稼いだところでどうにもならないことは理解している。とはいえ、今はとても決心などつかない。
「……分かったよ。なんとか邦彦には適当な理由をつけて話すことにする」
ふうと宇都木に聞こえるようなため息を真下はついて、ようやく眼鏡をかけた。
「申し訳ございません……」
「で、どういった嘘の理由を邦彦に話せばいいだろう?うちに来たことを知っているなら、いくらなんでも、体調が悪いから……というのはあまりにも不自然だよ」
できれば、東家を全面に出して欲しいと宇都木は思った。真下か、あるいは東がどうしてもしばらく宇都木を借りたいと、そういってもらえるのが一番ありがたい。だが、それは宇都木の都合で真下や東にそこまでの迷惑を掛けられないだろう。では、どういった理由が最もらしく聞こえるのか。
こうなってくると、どれほど不審な目を向けられようと、やはり体調が悪いと言うことを訴えるしかない。
「明日……病院に行った振りをします」
そして言うのだ。
しばらく安静にした方がいいと言われたと。
どう考えても不自然すぎて、疑われてしまうことになるのだろうが、それこそ、東家の傘下である病院に行き、先に嘘の診断書を作成してもらうよう手配してもらえるとなんとかなるのかもしれない。
とはいえ、東家の関連であることを如月は遠からず知ることになるだろう。そうなるとまた問題は蒸し返されるに違いない。この後、どう、誤魔化すかなど今の宇都木には考えられないが、先に秘書を降りるための口実をどんなことであっても作らなければならないのだ。
「……宇都木。それはかなり納得させるには無理がありすぎる。仕方ないね。宇都木はいままで随分東家に尽くしてくれたのだから、私が悪者になろうか……。まあ、いつも邦彦にとって、わざわざ悪者にならなくても、あの男は私をそうみているだろうから、別に構わないと思うが……」
苦笑しながら真下は、空になった紙コップにまたコーヒーを注いでいた。
「分かってます。分かってるのですが……他にいい案がとても思い浮かびません。もしかすると明日には頭もまともに働くかもしれないのですが……」
明日になったからといってなにが変わるかどうかなど全く予想もつかない。
「いや……そういう、穴だらけのことは逆にしない方がいい。嘘をつくということは、後から上塗りというメンテナンスを頻繁にしなくてはならないんだよ。そういう綻びは『嘘』というものにつきまとう。だからね。私が悪者になると話しているんだ。これなら、多少ばれたところで、私が適当に誤魔化してやれる。違うかな。別に宇都木が心配するようなことはない」
言い聞かせるように、ゆっくりと、はっきり真下は告げた。それでも納得できない宇都木ではあったが、変わりにもっともらしい案を出せないのだからしかたない。
「……お任せします」
絞り出すように宇都木は言った。
「ああ。そうしてもらう方がいいのだろう。宇都木にも邦彦にもね。じゃあ、話はここまでだ。もう帰っていい。明日からのことだから、宇都木が帰る間に邦彦に連絡を入れておこう。もし、都合が悪くなって、私の嘘を否定しなければならなくなったら、いつだって宇都木は邦彦に『あれは真下が考えた嘘だったのです』と、話して良い。私の心配はせずに宇都木は自分にとって一番いい方法をとるんだよ。これだけは約束して欲しい。あと、自分一人の思いこみで突き進まないこと。以前のように行き場を無くして草むらで丸くなるようなことはよしてくれよ」
「……はい」
本来は頷けないことだが、宇都木は真下を心配させないように、形だけの了解を見せた。
「さあ、タクシーを呼んであげるから、真っ直ぐうちに帰りなさい」
真下は、どこまでも優しい笑顔を浮かべながら、宇都木にそう言った。
マンションに戻ってきた宇都木は、とりあえず玄関を開けて中に入ったものの、先に真下より説明してくれているであろう、如月がどういった行動を取り、なにを口にするのかばかり考えて頭をいっぱいにしていたため、脱ごうとしている靴が上手く脱げず、もう少しで転んでしまうところだった。
「お帰り……未来」
散乱させた靴を並べようとして身体を屈めていると、背後から如月の声が響いた。宇都木はまた靴を落としてしまいそうになったが、なんとか耐え、シューズボックスに靴を並べてから、立ち上がった。
「はい。ただいま帰りました……」
俯き加減に振り返ると、如月の腕が己の身体を包み込むように抱きしめてきた。
「邦彦さん……」
いきなり抱き込まれたことで、身体が如月に押しつけられたようになっていて、表情が見えない。同時に不安だけが胸を覆う。
「話は……真下さんから聞いた。私はいつになったら、未来の全てを私のものにできるんだろう……」
寂しげに呟かれた声に、宇都木は言葉を失ってしまった。