Angel Sugar

「障害回避」 第18章

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 宇都木はズボンのポケットにテープレコーダーを忍ばせて、一度試しに自分の声を拾わせてから再生すると、はっきり聞き取れる声が録音されていた。宇都木は安堵しながら巻き戻し、再度テープレコーダーをポケットに入れる。
 こういった証拠を残しておけばいい。ギリギリまで追いつめられたら、テープを聴かせ、脅迫されていたと、今度は逆にこちらが脅してやればいい。
 こういったことは慣れていた。
 私設秘書だったころ、宇都木がよく使った手だ。いや、どちらかというと、東家を守る私設秘書はこう言ったことに長けている。脅しや脅迫を宇都木は問題なく片づけてきたのだ。ついこの間までは簡単にできていたことなのだから、今回も上手くやれるはずだった。
 大丈夫。
 上手くできます。
 宇都木は深呼吸をして、立ち上がった。
 相手に隙を見せないことが前提だ。何を言われても動揺するような表情は絶対に見せてはならない。
 宇都木はマンションを後にして、タクシーを拾った。自分の車を使うとナンバーや車種を覚えられる可能性があったからだ。
 とはいえ、相手が既に宇都木のことを調べていることも考えられる。その時は仕方ないのだろうが、知らない相手に自ら教えることもないだろう。
 運転手に行き先を告げ、宇都木はシートに深く凭れてため息をつく。
 妙な男から連絡が入ってから、知らぬ間に、隠せない動揺が宇都木の表情を曇らせていたのを、如月はどうも感じ取っているようだった。
 どうしたのだと問いかけてくることはなく、如月の口調もいつも通りなのだが、心配そうに向けられる青い瞳は誤魔化せなかった。宇都木が普段通りに振る舞おうと必死になればなるほど、宇都木は身体が妙に強張り、今まで絶対にしないような、皿やコップを割る……といったことばかりしていたのだから、変だと思われても仕方ない。
 如月に対する言い訳はもう、出尽くしてしまった。
 次はどういう言い訳を口にすればいいのか、宇都木には思い浮かばない。
「お客さん、着きましたよ」
 運転手の声に我に返った宇都木は、精算を済ませて車から降りた。何処から見ているか分からない問題の男に余裕を見せつけるように、宇都木はゆっくりとした足取りでホテルのエントランスを抜け、歩道側に設けられている喫茶店に入る。すると、観葉植物の置かれている向こう側に位置する席に座っていた男が立ち上がり、こちらへ来いと言わんばかりに手を振った。
「来ないかと思ったよ」
 宇都木が対面に座るのを見届けてから、男は椅子に腰を下ろした。
 男はごく普通のタイプで、特に目立つ容姿をしているわけでもない。濃い茶色の髪は綺麗に手入れされていて、だらしない様子も見られなかった。日に焼けた顔は、スポーツマンと言うより、仕事で自然に染まったものに見える。目は細く、抜け目のない狐に似ていて、口を閉じていても右肩上がりの口の端はじっと見ていると虫ずが走りそうだ。
 だが、宇都木はどこかでこの男と会った覚えがあった。それが何処であったのか、思い出せない。
「お話が終わり次第すぐ、おいとまさせていただきます。簡潔にお話していただけますか?」
 淡々と宇都木はそう言った。
「……まあ、そう、慌てるなよ」
 男はスーツを着ているところからどこかのサラリーマンなのだろうか。如月の仕事相手にはこういう男はいない。だが、確かにどこかで見た顔だった。
「つかぬ事をおうかがいしますが、どちらかでお会いしたことがありましたか?」
 やってきたウエイトレスを追い払い、宇都木は男の視線から目を逸らさずにそう聞いた。
「嬉しいな。覚えてくれていたか?」
 男は急に嬉しそうに笑い、飲みかけのアイスコーヒーに差し入れていたストローをぐるりと回転させた。
「いいえ。知りません」
 宇都木の言葉に、男は肩を竦ませて見せた。
「……つれないな。俺は会ったことあるのによ。もっとも、あれじゃあ、覚えてないのも仕方ないのかもな」
 面白くなさそうに男は言い、後頭部で腕を組んだ。
「……」  
 目の前にいる男のことを、いくら考えても宇都木には思い出せない。宇都木には、一度でも会った相手は、必ず忘れないという自負があったのだ。その自分が思い出せないと言うことは、面と向かって会ったことはない、話したこともない相手なのだろう。
「浦安のテーマパークプロジェクト……」
 男は後頭部で組んでいた手を解き、頬杖をついた。
「……それが?」
「業者を呼んでプレゼンをしただろう?」
 そう言えば、今回のプロジェクトに関するプレゼンテーションを先月やった。だが、大がかりなものではなく、身内だけの協力会社しか呼んでいないはずだった。その中にこの男がいたのだろうか?
「……先月、確かに行いましたが、覚えはありませんね」
 冷ややかな態度で宇都木は答えた。
 東都建設、設計事務所、デザイン事務所など、東都関連の一部の人間しか集めなかったはずだ。あとは、海外から呼んだ、アミューズメントなどのプロモーションを手がけている業者だった。
 身内以外で疑わしいのは海外から呼んだ業者だろう。だが、全て外国人で、このような男が混じっていたなら宇都木も覚えているはずだ。
 だが、覚えがない。
「悲しいなあ……もっとも、そう言われても仕方ないか。一応俺も東グループの関係会社の人間だし……身内になるんだけどな」
 くすくすと笑って、男は宇都木を品定めするような視線を送ってきた。その、舐めるような視線に宇都木はゾッとする。
 身内が身内を脅して何を考えているのだ。
 腹立たしい気持ちを抑えつつ、宇都木は平静を保った。大体、こういう人間がいるから、社内の情報がリークされ、すんなり契約が成立する仕事もややこしいことになる。会社に奉仕するという気持ちが最近、薄れ、己の利益ばかりを追い求める人間が増えすぎたのだ。
 一時期利益を得たとしても、そういった噂は必ず後から噴出する。そうなったときに首を切られたとしても、行き場を失うことを大抵の人間は知らなさすぎるのだろう。
 一度裏切った社員は、受け入れてくれる会社があるわけなどない。甘い餌につり上げられて、夢を見られるのは一度きり。その後のことなど誰も保証してくれないのだが、騙される社員は後を絶たない。
 会社の業績が上がれば、後々自分に還元されることをほとんどの人間は知らない。今、見えることでしか判断ができないのだろう。
 サラリーマンは悲しい生き物だと宇都木自身も分かっている。会社に使役され、己の意志など失われていく虚しさは、確かに自分の存在意義を見いだせなくなることも多いだろう。
 だが、宇都木はそうは思わない。
 自分の上司--この場合、如月だ--が自分の働きで評価されることこそ喜びだ。如月自身が宇都木を必要な人間であると評価してくれることが、宇都木の存在する意義を見いだせる。
 人にはそれぞれ役割があるのだと宇都木は思っていた。支える人間がいて、表で輝く人間がいる。例えどんな役割を持たされようと、会社という組織を支えるためにはどんな人間も必要なのだ。
 ただ、それを分からせてやることのできない人間も多いのが問題なのだろう。
「同じ系列会社であるのなら、貴方の今していることは会社に対し、不利益をもたらす可能性があるのだと理解できるのでは?」
 軽蔑するような目を向けて宇都木は言った。
「ああ、分かってる。別に会社に忠誠を誓ってるわけじゃないしな。そんなものはどうでもいい」
「では、さっさと会社を辞めたらどうです」
 こういう男を目の前にすると、宇都木は吐き気がしそうだ。
「いずれ辞めるつもりだ。あんたに心配されなくてもな。ほら、分かってるだろ?自分でやろうとしていることがどういうことかさ。それだけの覚悟はしているし、俺の行き先は既に決まってるからよ」
 どこかの企業に買収されたのだろうか。
 良くあることとはいえ、目の前で豪語されると気持ちいいものではない。
「……そうですか」
 宇都木には説得するつもりはなかった。どうせ話したところで通じないことが分かっているからだ。
「で、問題は、あんたのことだったな」
「金ですか?」
「金じゃあない」
 男の笑っていた顔が、急に真剣なものへと変わった。
「では、どうされたいのですか?」
「あんたを欲しがってる男がいるんだ」
 男の言葉に宇都木はやや目を見開いたものの、動揺を見せることはなかった。
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