Angel Sugar

「障害回避」 第44章

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「ちょっと離れの洋館に行ってきてもいいですか?」
「ん?なぜだ?」
 剣はようやく顔を上げて宇都木を見つめた。心の奥底まで覗こうとする深遠な瞳が宇都木に向けられる。けれど宇都木は動揺を一切見せずに、ポーカーフェイスを保った。
「自分がもといた部屋から、明日帰るときに持ち出したいものがあるんです。邦彦さんのうちで一緒に暮らすようになってから、一度も戻っていませんし……きっと埃だらけになっていると思うんですが」
「そうか。真下が帰ってきたらそう伝えておくよ。どうせもう今はすることがないからな。だが、真下の許しが出ない今は、敷地から外へは間違っても出ない方がいいぞ。警備員にきつく指示してあるらしいからな」
 剣はまた俯いてパソコンを眺めながら、宇都木に言った。
「はい。存じています」
 今は出られない。
 けれど、明日には出て行ける。
 宇都木は真下の部屋から廊下に出ると、裏口から外へと出た。
 裏口から左手には、洋館に続く細長い道があり、右手には大きな人工池に続く道がある。宇都木はチラリと人工池の方へ視線を向けて、在りし日の想い出にしばらく浸った。
 あの大きな亀はまだいるのだろう。
 人の気配を察知すると、大きな口を開けて餌をねだる鯉もまた、いるのだろう。
 ここは時間が止まっている。
 木々は宇都木がここに始めてきたときよりも葉を茂らせているものの、その幹の太さはさほど変わっていない。時の流れがゆっくりとここでは刻まれているのだろう。とはいえ、屋敷の中ではいつも真下が時間に追われてあらゆる雑務をこなしているのだ。内と外の時の流れが違うのだ。
 宇都木にはそれが不思議な感覚だった。
 風がほおを撫でていく。さわさわと木の葉が擦れあわされる音だけが周囲に響いていて、都会の喧噪からかけ離れたこの場所。
 ここに来てから宇都木は一度も立ち止まることなく走ってきた。後ろを振り返ることも未来を描くこともしたことがなかった。人を愛することなくこのままこの身を東家に捧げるのだろうと思っていた。
 けれど、如月に出会った。
 黒髪に青い瞳を持つ男に。
 宇都木の一目惚れだった。恋をした瞬間、それ以外のあらゆることが空しく思えたのだ。どうして今まであの胸のときめきを知らずに生きてきたのか。あのとき宇都木は、自分のそれまでの人生が、すべて無駄に思えたほどの衝撃を受けた。
 宇都木は左の細い小道を歩き、洋館の裏口へと向かった。砂利道を一歩進むごとに、石ころが擦れあわされて乾いた音が響く。それはどこか懐かしい響きだった。
 風が相変わらずほおを緩やかに撫でていく。
 宇都木は洋館の裏口から中へと入ると、玄関ホールに向かった。静まりかえった洋館一階の一室にはきっと恵太郎がいるのだろう。そして彼は必死に勉強をする振りをして、集中出来ずに唸っているに違いない。
 他の秘書達がいる気配はなかった。
 それぞれの仕事に出かけているに違いない。
 ここは秘書達の避難所のようなものなのだ。幼い頃はここで生活をし、それぞれの道を選んで出て行くのだ。けれど、心が疲れたらここに帰ってくる。東はそれを知っているからこそ、彼らの場所を未だにそのままにしてあるのだ。
 何十人がここから巣立っていったのか、宇都木はしらない。
 けれど宇都木が来た頃は年齢の様々な子供達が走り回っていた。けれど当時を思わせるような声は今はなくなり、静まりかえっている。
 東は現在余程のことがない限り、子供を引き取らないからだ。
 その理由が気になっていたが、東に問う機会には恵まれず、現在に至っていた。
「あ、宇都木さん。どうしたんですか?」
 恵太郎の声に宇都木はハッと我に返った。
 また恵太郎は手に亀を持っている。本当に亀が好きな子だった。
「ええ。自分の元いた部屋に用事があって」
「そういえば二階に宇都木さんの部屋があるんですよね」
 ホールから上を見上げて恵太郎は興味津々に言った。
「そうです。ずっと放置したままになっていましたので、少し荷物の整理をしようと思って」
「いいなあ……二階」
「二階が好きなんですか?」
「え、ううん。そういう訳じゃないんですけど、僕の部屋って、窓からすぐのところに気持ち悪い井戸が見えるんです。それが怖くて……」
 確かに恵太郎の部屋の窓からは古井戸が見える。けれどあれは現在水が涸れていて、井戸の役目はしていなかったはずだ。
「あの井戸はもう水はありませんよ。もしかして恵太郎さんは恐がりなんですか?」
 無邪気な恵太郎を見つめて宇都木は微笑した。
 恵太郎と話していると心が温められるのだ。彼の持つ、おっとりした性格がそういう雰囲気を醸し出しているのかもしれない。
「……恐がりじゃないですけど、幽霊は怖いです」
 恵太郎らしい答えだった。
「……そういえば、恵太郎さんはどちらに行かれるんですか?また手に亀をもってらっしゃいますが……。勉強するのがそれほど嫌なのですか?」
「人の気配がしたから出てきたんですっ!宇都木さんだとわかってホッとしたから、また戻ります……」
 結局、恵太郎は恐がりなのだ。思わず笑いが漏れそうになったが、宇都木は顔を引き締めた。
「そうですね。今は苦しいかもしれませんが、慣れると勉強も楽しいですよ。さあ、早く部屋に戻って、続きに集中してください」
「は……はあい」
 恵太郎は肩を竦めながらもきびすを返して去っていった。
 宇都木は恵太郎が部屋に入るのを確認してから二階へと上がると、自分の部屋へ足を踏み入れた。
 思ったほど埃も舞っていないし、テーブルや本棚も綺麗だった。外で一人暮らしをするために、衣類は持ち出したが、あとは出て行ったときのままだ。ここも時間が止まっているのだ。
 学生時代に使った参考書もそのまま本棚に並んでいる。
 宇都木はそれらには目を向けずに真っ直ぐテーブルに向かった。
 一番下の引き出しに持ち出したいものがあったのだ。
 宇都木はそっと引き出しをあけて、ノートやレポートなどの下敷きになっていた、目的のものを手に取った。
 それはたった一枚残っている家族の写真だった。
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