Angel Sugar

「障害回避」 第15章

前頁タイトル次頁
「どちらさまでしょうか?」
 冷静に宇都木は答える。
『こっちの名前は名乗る必要は無いな。それより、面白い話が聞きたくないか?』
 男はそう言いつつ、低い声で笑った。
「……嫌がらせでしたら、結構です」
 宇都木は気味が悪くなり、思わず受話器を下ろし、リビングを出ようとしたが、すぐさま電話のコールが鳴り響いた。
「……ですから、どちら様なんでしょうか?」
 取らなければ良いのだろうが、如月がいるのだ。もし宇都木が取らなければ向こうの部屋で如月が取るに違いない。それは避けたかった。
『名前は必要ないって話してるだろうが。それより、勤めていた会社、辞めたんだって?社員抹消までされてるな。あんたの家族のことが原因だろ?』
 聞いたこともない声の男が何を知っているのか分からないが、宇都木のことをよく知っているのだ。しかも、今巻き込まれている事件のことも知っている。とはいえ、相手の目的が見えない以上、下手なことは口にしない方がいいだろう。
「……何をおっしゃっているのか、私には全く分からないのですが」
『はは……とぼけて煙に巻くつもりか?無駄だ。調べはいろいろとついてる』
 一体、誰だろうか。
 いくら考えても宇都木には電話向こうの男が誰なのか想像すらできない。
「それで、どういうご用件なんです?」
『……まあ、別に大したことじゃないんだが、一度、会ってゆっくり話をしないか?』
「……」
 宇都木が黙り込むと、男の方から口を開いた。
『そういえば、あんたが勤めていた会社。でかいプロジェクトを進めているな。今は社員として働いていないとしても、プロジェクトを中心に動かしている人間の下で秘書をしていた男が、ああいう問題をおこしていたとばれたら、よくてプロジェクトは難航、悪くて他社に横取りされるだろう』
 この男に言われなくても、それが予想されたから、宇都木は会社を辞めたのだ。しかも社員としての痕跡を残さないよう、全て真下が手配してくれた。如月の足を引っ張るわけにはいかないからだ。
 電話向こうの男は詳しいことを知っている。嘘を付いているようには聞こえない。とはいえ、ここで認めるわけにはいかないだろう。
「私のことを引き合いに出されたとしても、問題はないでしょう。大げさですよ」
 弱みを見せたら負けだ。
 電話向こうの男は駆け引きをしている。だったら、宇都木は優位な立場にならなければならない。
『……明日にでも怪文書をばらまいてやってもいい。それともライバル会社にこのネタを売ってもいいだろう。どちらにしても、俺にとって儲かるネタだから、あんたがどう強気の立場を取ろうと、こっちから引く気はないな。諦めろ』
 動揺の欠片も見せない男は、小さく笑う。その冷えた笑いに、初めて宇都木は背筋にゾッとしたものが走った。
 こういう場合どうしたらいいのだ。
 金を払った方がいいのか。
 だが、一度払って、二度目がないという保証はない。大抵、何度も金を請求されれて泥沼になるのが落ちだ。
 金を搾り取られた上、最終的にこの事件を表沙汰にするだろう。電話向こうの男なら必ずそうするに違いない。
 真下さんに相談しよう……。
 宇都木はまず真下に相談することを選ぶことにした。真下なら何か良い案を宇都木に授けてくれるだろう。宇都木が勝手な行動を取れば、必ず如月に迷惑がかかり、最終的に東家に対して被害を及ぼす。
 宇都木にとって一番なって欲しくない結果だ。
「……そういう脅しには乗るつもりなどありません」
 きっぱりと宇都木は言った。
 弱みは見せない。
 そう決めたからだ。
『脅しに聞こえたか?違うな。別に金を請求しているわけでもなければ、怪文書だってまだばらまいてないだろ?俺は言ったはずだ。一度ゆっくり会わないか……ってな』
 この男は、何を考えているのだろう。
「……」
『お茶でもしようって話してるんだろう。その程度で済むなら、あんたにとっても得だと思うんだが、どうだ?』
 ……。
 一度会って、どういう男か相手を見てから真下に相談してもいいかもしれない……。
 そんな気持ちに宇都木は傾いていた。今でも随分と真下に迷惑をかけているのだ。これ以上の迷惑は掛けられない。
 もちろん、会うだけで済むとは思っていなかった。そこで金の話しになるに違いない。
 結局金なのだ。
 だが、それなら、こちらも万全の用意を整えて、脅迫の証拠を掴めばいい。そのためにも会うしかない。
「……分かりました」
『話の分かる男は好きだな。来週の月曜はどうだ?』
 早いほうが宇都木も都合がよかった。嫌なことはさっさと終わらせたい。
「構いません」
『じゃあ、待ち合わせについてだが……』
 宇都木は男が言うとおりの場所を記憶して、電話を切ると、すぐに周囲を見渡した。男と話すことばかりに集中していたので、如月がどこかで聞き耳を立てていたかもしれないのだ。
 だが、宇都木が心配するようなこともなく、何処にも如月の姿は見られなかった。というものの、気になった宇都木は如月を探す。すると、バスルームからシャワーの音が響いているのが聞こえた。
 よかった……。
 盗み聞きされたとして、宇都木の声だけで会話の内容は想像つかないだろうが、よからぬ相手からの電話であることには気づくはずだ。
 そういう心配を如月にはしてもらいたくなかった。
 宇都木は、出てくる如月のために、ローブを用意し、キッチンに向かった。喉がカラカラで痛みを覚えるほどだったのだ。
 苦しい……。
 冷蔵庫からミネラルウオーターのボトルを取り出して、コップに水を入れた。一気に飲もうとしたのだが、僅か一口で吐きそうになる。何か喉に詰まっているような感じだ。
 ここにきて、どうしてあんな両親の子供として生まれたのだと本気で恨み言を口にしてしまいそうだった。
 途中で宇都木を放り出した両親だ。
 奇妙な宗教にのめり込んだのも両親の意志だった。
 そんな彼らにどうして今頃、悩まされなければならないのだろう。
 宇都木にのみ、問題が降りかかってくるのなら、受け入れていたはずだ。どんな謝罪でもするし、金が必要なら持っているだけ出すだろう。
 だが、それだけで済まないことを宇都木には分かっていた。
 如月に……そして、東に迷惑がかかる。
 それだけは、死んでも宇都木は嫌だったのだ。如月は宇都木が守りたい一番の相手だ。自分のことが原因で今まで頑張ってきたプロジェクトが水泡に帰すなど考えたくもない。後押ししてくれている東にも迷惑がかかる。
 宇都木は東に引き取られ、育てられた。その東は一般の家庭にいる老人ではない。大企業グループの会長だ。東に迷惑が及ぶと言うことは、東個人に対してではなく、企業全体のイメージダウンに繋がる可能性もある。
 絶対に駄目……。
 それだけは避けなければ……。
 水滴のついたコップを握りしめ、宇都木は俯いたまま口を引き絞った。
 誰にも迷惑を掛けたくない。
 そういう人生を歩むつもりだった。
 育ててもらった恩を返したい。
 愛する人の足を引っ張るようなことなどしたくない。
 なのに、自分の存在自体が、時限爆弾のようになっている。
「未来……誰からだったんだ?」
 キッチンに戻ってきた如月が、ローブ姿で入り口に立っていた。
「真下さんからです」
 必死に笑顔を作って宇都木は言う。絶対に不信感をもたれてはならない。
「さっき会っていたのだろう?それでまた電話か?」
 やや不機嫌な顔で如月は宇都木の座る椅子の側に近づいてきた。
「お渡しした書類の中でわかりにくい箇所があったようです」
「そうか……」
 言いながら、如月は宇都木の身体を引き寄せた。もちろん、宇都木は逆らわない。
「邦彦さん……」
 熱いシャワーを浴びたのが分かるように、触れている如月の身体からぽかぽかとした体温が伝わってくる。逆立っていた神経が少しだけ落ち着きを取り戻した。
「未来……今晩はゆっくりできるな?」
 熱のこもった如月のセリフに宇都木は頷いた。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP