「障害回避」 第28章
宇都木を綺麗にしてからローブを着せ、如月もローブを羽織って宇都木を抱き上げ、寝室に向かった。口を閉ざしたまま、ただ、泣いているばかりの宇都木に如月は苦いものが込み上げる。だが、怒りにまかせて怒鳴り散らすのは得策ではない。今は冷静になり、これからどうするかを考えるのが先決だろう。
ベッドに宇都木を下ろし、如月も同じようにベッドに上がり、まるで凍える身体を温めるように丸くなっている宇都木の身体を抱きしめて、震える背を緩やかに撫でた。こちらを見ようとしない宇都木を無理強いすることなく、如月は言った。
「未来……もう泣くな。もう、綺麗になった。お前が泣くことなど何もないさ」
顔を如月の胸に押しつけるようにして相変わらず涙を落とす宇都木に、如月は更に言った。
「お前を愛している。……愛しているんだ」
まだ乾かない髪に口元を押しつけて、如月は目を細めた。
小刻みに震える身体は一向に収まらない。こういう場合は、追いつめてはならないのだ。桜庭の名前など絶対に口にしない方がいい。
いや、今、こうしていたいのは、もしかすると如月の方かもしれない。抱きしめて、己のものだと実感したいのだ。腕の中に宇都木がいるだけで、安堵できる。逆にこうしていないとこの男はまたどこかへ行ってしまいそうで、気が気でならない。
これでは未来を一人にできない。
宇都木が桜庭の元に出かけていった理由。推測でしかないが、アミューズメントパークの絡みであることは容易に考えられた。この件で宇都木はずっと気を揉んでいた。そして、桜庭は自らもアミューズメントパークに関して名乗りを上げると如月に宣言していたのだ。それを餌に、宇都木は呼び出されていたに違いない。
桜庭が如月に告げる前に宇都木は知らされたのだろうか。それとも何処からか情報を得て、如月には話せずに黙っていたのだろうか。それをずっと悩んでいたのか。
この辺りは分からない。桜庭がアミューズメントパークに参入したからと言って、真下が如月から宇都木を取り上げることはしないだろう。とはいえ、ある程度宇都木の変調に桜庭が関わっていることだけは間違っていないはずだ。
声を上げて泣いていた宇都木が、ようやく落ち着き、何かを考えるような瞳をしながら如月に身体を預けていた。それでもまだ身体の震えは収まっていない。如月は手を休めることなく宇都木の背を撫でる。
「……眠ってもいいぞ」
宇都木を一人にすると、また自分一人で結論づけたことを実行するに違いない。それは如月が止めたところで無駄なのだ。こういう、自らが破滅するようなことでも、宇都木は如月の為になると判断すれば飛び込んで行き、ずたずたになって戻ってくるのだ。
それが宇都木という男なのだろう。
確かに仕事上でパートナーとして宇都木の手腕を買っている。そつのない手配をこなし、かといって如月の前に出ず、いつもひっそりと側にいて如月の支えになってくれる。だからといって、自らを犠牲にするような愛し方をして欲しくない。時には、如月に全て押しつけて逃げても構わないのだ。なのに宇都木は一人で受け止めて、自分だけで判断をしてしまう。
こんな愛され方はされたくない。
――だがそんなことを口には絶対にできない。
辛いな……。
守れなかった男としては。
腕の中で小さくなっている宇都木はとても弱々しく見えた。こうやって抱きしめていないと壊れてしまいそうなほど。
「入っていいか?なんか飲みたいだろうと思ってさ。ホットミルクを勝手に作ったんだけど、飲む?」
神崎が扉向こうから声をかけてきた。
「あ、ああ、構わない」
宇都木に毛布を掛けて、姿を隠してやる。こういう姿はあまり見られたくないだろう。暫くすると神崎が視線を逸らせながら入ってきた。
「サイドテーブルに置くから勝手に飲んでよ。あ、如月のカップは青いやつだから。如月はミルクが嫌いだろう?じゃ」
ベッド脇のテーブルにカップを置いた盆を乗せ、神崎は小走りに寝室から出ていった。
ミルクが嫌い?
好んで飲むことはないが、如月はミルクを飲めないわけではない。
妙なことを言うんだな……と、思いつつ如月は宇都木に言った。
「未来。今の男は私の友人だ。ミルクを入れてくれたそうだから飲むか?」
毛布の中で宇都木は頭を左右に振った。
飲みたくないと言っているのだろう。
「いや。温かい飲物を飲むと落ち着くから、飲んだ方がいい……」
サイドテーブルに手を伸ばし、青のカップではなく、赤のカップを掴んで、如月は宇都木を起こした。
「いえ……私は……」
目を伏せたまま宇都木は言う。
「きっと気持ちが落ち着く。飲むんだよ……未来」
命令するわけではないが、やや強い口調で如月が言うと、宇都木は如月の持つカップの方に視線を向けた。
「少しでいいから飲むんだ……いいな?」
宇都木の口元にカップを運ぶ。すると宇都木は素直にカップの中身を一口、二口と口に含んで呑み込んだ。
「温かい……」
ぽつりと呟き、宇都木はまた涙を一筋流した。目は泣きすぎて腫れ、笑うことを忘れた表情が痛々しい。
「沢山、飲むといい。喉が渇いていたんだろう?」
細い宇都木の肩を支え、額に軽く愛撫をする。弱々しい宇都木を見ているだけでも今は苦痛だった。この身体を抱きしめて、自らも泣きたくなる気分に陥りそうだ。
「……もう。いらない……」
宇都木はそれだけ言うと、がっくりと身体の力が抜けて、如月に倒れ込んできた。
「未来?おい、未来……」
目を閉じてしまった宇都木の姿に驚いた如月は声を掛けるが、指先がぴくりとも動かなかった。
「あ、ごめん。ちょっと彼の飲物には少しばかり睡眠薬を入れさせてもらったんだ。如月が飲まなくて良かったよ。じゃ、僕はリビングで一休みさせてもらうよ」
寝室の扉を薄く開けて、それだけを言うと、また扉を閉めた。気の回る男であるはずなのに、どうしてあのホテルではこのくらいのことができなかったのか。
済んだことを言っても仕方ないか……。
眠り込んでしまった宇都木をそっとベッドに横にさせ、毛布を掛ける。
さて……どうする?
天井を眺め、如月は息を吐いた。めまぐるしく状況が変わりすぎて頭が直ぐに回転しない。いや、桜庭に対する怒りの方が大きくて、冷静になろうとしてもできないのだ。とはいえ、まずは宇都木をどうするかが問題だ。
当分、一人にさせることは絶対にできない。自由にさせておくと何処へ行ってしまうか分からないのだ。
真下さんに預けるしかないか……。
宇都木にとって一番安心できる場所だ。真下はいつも屋敷にいて、執事もいる。使用人も沢山いる。頼めばそのうちの誰かが宇都木の監視をしてくれるはず。今の宇都木は誰かの監視がなくてはならない状態だ。それは如月にはできそうにない。如月は桜庭を追いつめるために会社に行かなければならないのだ。
どうあっても宇都木を一人にはできない。
だが、無理にあの屋敷から連れ出した宇都木を、もう一度頼めるのか、如月には分からない。今回のことで、二度と如月の元には預けられないと言い渡される可能性もある。
真下ではなく東が。
一番、宇都木を可愛がっているのは東であることを如月は知っていたのだ。そして、東の決定には誰も逆らえない。
……。
仕方ない。
確かに私は未来を守れなかった。
何の手も打てなかった。
いつだって、何もできずに後悔するばかりだ。
手放したくない。
いつも側にいて欲しいと思う。
東家になど帰したくない。
――だが、これ以上、ここにはおけない。
「もう二度と、お前とこうやって過ごせなくなるかもしれないな……」
哀しみを伴った表情のまま眠る宇都木を眺めながら、ここに来て初めて如月は涙を落とした。