Angel Sugar

「障害回避」 第20章

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「ちょっと待て」
 手を伸ばして如月が神崎のカバンを掴み、先ほど戻したカンペンケースを取り上げた。
「え……」
「他人に、自宅の鍵を持たれるのは、信用している相手であっても気に入らない。悪いが、返してもらう」
 カンペンケースをポケットに入れる如月に、神崎はため息をついて見せた。
「……まあ、それは構わないけどさ。じゃあ、自分で取り付けてくれる?」
 渋々という顔で神崎はカバンから小さなチップに導線がついたものをテーブルに置いた。
「電話の下でもいいし、見つからないところにつけて置いてくれたらいい。つけたことを忘れて、エッチな会話なんかするなよ。そういったことに関してあとで苦情は受け付けられないからね」
 ふうっと息を吐いて神崎は言った。
「分かった。気をつけるよ」
 神崎がテーブルに置いた器具をポケットに入れて、如月は頷いた。
「話を聞いていても僕には、その宇都木って男が何に悩んでいるか分からないよ。たださあ、大抵、こういう場合は他に誰かできたっていうのが濃厚なんだけど、そういう事実が分かってもいいの?」
 やや顔を斜めにさせて、神崎はどこか面白くなさそうな表情だ。
「宇都木はそう言うことでは悩まない」
 冗談であっても如月は言われたくないことだった。如月は宇都木を信じている。いや、信じているから、という陳腐な言葉で宇都木という人間は語れない。
 宇都木は裏切らない男なのだ。
 それを如月が一番よく知っている。誰を裏切っても如月を裏切らない。
「……如月も恋のマジックに引っかかっていて、騙されてるんじゃないのか?」
 意味ありげな目つきを向けて神崎はニヤリと口を歪ませた。どうあっても宇都木が浮気をしているといいたいようだ。
「私に喧嘩でも売るつもりか?受けてたってもいいが、終わってからにしてくれ」
 苦笑して答える如月に、神崎は手を挙げて見せた。
「よっぽど惚れ込んでいるみたいだ。ま、とりあえず宇都木という男の過去をざっと洗ってみるよ。もちろん、終始つきまとって行動も把握するけど、報告はどうする?二、三日に一度?それとも一週間に一度?終わってからまとめてがいい?」
「毎日報告してくれるとありがたいよ」
「毎日だって?」
 驚きに裏返った声を上げて神崎が立ち上がったため、如月は慌てて肩を掴んで座らせた。
「大きな声をだすな」
「……毎日なんて言うからだよ……いや、別にそうしたいのならいいけど」
「そうしてくれ。報酬ははずむ。それでいいだろう?」
 如月がレシートを掴んで立ち上がると、神崎もカバンを持って腰を上げた。
「終わったら、豪遊できるくらい請求してやるからね」
 ニンマリと笑って神崎は先を歩く如月を抜き、表通りに出ると後ろを振り向かずに雑踏に消えていった。

 事務所に戻ると香月が待っていたように声を掛けてきた。
「今、呼び出そうとしていたんです。桜庭さまというかたがいらしてます」
 香月は如月に用件を言いつつ、机の書類を床に落としていた。だが、如月は桜庭という名前に心当たりがあり、香月に注意することも後回しにして、応接室に入った。
 桜庭はソファーには座らずに窓際に立ち、ビルの街並みを眺めていた。背を向けている桜庭の濃い茶色の髪は整えられ、如月より一センチ低い身長が、細身の身体のためにこちらより高く見える。仕立てがいいことが見ただけで分かる、オーダーされたスーツは、漆黒で、まるで葬式帰りのように見える。
「アメリカから出張にでも来たのか?」
 扉を締めると、如月はその場で立ち、腕を組んだ。
「……久しぶりの再会に挨拶はないのか?」
 桜庭は振り返り、かけていた真っ黒のサングラスを取り去ると、胸ポケットに突っ込んだ。向ける瞳は左右違う。片方は黒く、もう一方は薄い色素で、陽に当たると瞳の色の淵だけ色味が残り、ごく薄い茶色だ。
「お前の顔を見るのが嫌でね。もっとも、お前も私の顔を見るのは気に入らないのだろう?」
 如月の言葉に桜庭はクスリと笑い、大げさに手を振って見せた。
「気に入らない?私が気に入らないといえば、そうだな。如月がフェアな試合をせずに、アメリカから突然日本に帰ったことだ」
 ニューヨーク支社にいた頃、如月が関わる仕事全てに絡んできては、邪魔をしてきた男だ。
 理由と言えば、数年前、数十社の企業交流のバスケの催しで、相手チームに桜庭がいた。如月も出ていたのだが、試合が佳境に及んだ頃、こちらが意図せず勝手に如月の足に引っかかり、桜庭は転倒した。試合は相手チームが勝ったのだが、その時わざと如月が足を出したのだと勝手に思っている。そういう事情もあり、桜庭は未だに如月に対して恨みを抱いている様子だった。
 執念深いというか、なんというか……。
呆れて如月は何を言えばいいのか言葉すら浮かばない。
「逃げたんだな?私が怖くて」
「……怖い?何を言ってるんだ。私は本社の意向で日本に転勤になっただけだ。逃げもしなければ、君と勝負をしていたわけでもない」
 ため息をつきつつ、如月は髪を撫で上げた。
「同じ土俵に上がるには、同じ国に移動しないとな……」
 印象的な瞳をこちらに向けて、挑戦的に桜庭は言った。
「受けて立つ気はない」
「そう思った。だから嫌でも関わらせてやろうと思ってる」
 桜庭はようやくソファーに腰を下ろし、両脚を組んだ。
「……どういう意味だ?」
 如月はソファーに座らず、扉のところに立ったまま桜庭を睨み付けたが、口元に笑みを浮かべるだけで答えない。その意味深な笑みから如月は嫌な予感がした。
「……おい、お前の勤めている会社は外資系でしかも日本に支社は無いだろう?」
「無ければ作る。それだけのことだろう?」
 フンと鼻を鳴らして桜庭は両手を組んだ。
「お前の勤めている会社は石油だろう。うちは商社だぞ。どう、考えてもお前が言う、同じ土俵には乗れない。違うか?ニューヨークでは私も石油を扱ってた。だが、こちらでは部署が違う。私は国内取引の仲介だ」
「分かってる。だが、石油会社だって慈善事業はしたいんだよ、如月。地球温暖化に拍車を掛けているからな。それだけでイメージが悪い。そういう企業は善行を施すことで、世間から非難の目を逸らそうとするものだ。砂漠に木を植えるのと同じものだな」
 桜庭が何を言おうとしているのか、如月にはピンと来ない。大体、この男が日本に居ること自体、悪夢としか言えないのだ。
「抽象的に言うな。はっきり言え」
「木を植えたところで、丸い地球の裏側だ。評価はなかなか上がらない。もっと派手に宣伝できるところに会社も投資したいらしい。だから、日本に来た」
「支離滅裂だな。派手な宣伝がしたいならアメリカでやれ」
「如月がいなければ私も面白くないだろう?」
「……そんなに、観客の前で転んだことが気に入らないのか?その程度のことで人を恨むのなら、お前はあちこちに復讐したい相手を作るんだな。非生産的だ」
「恨む?あんな、大昔のことを私は持ち出したりしないさ。単に、如月が気に入らないだけ……」
 立ち上がって桜庭は扉の前にいる如月の方を向いた。
 昔のことを持ち出さない男が、どうしてあの事件以来、如月に絡んでくるのだ。ただ、その理由を問いかける気はもうなかった。
 聞いたところで、どうせ、腹立たしい言葉を口にするに決まっている。
「気に入らないか……だったら日本に来るな」
「もう遅い」
 間近に立って桜庭は如月の顔を見据えた。
「勝手にしろ」
「この青い瞳が涙で濡れたらとても綺麗なんだろうと思ってるんだが、泣いたことはあるか?」
 頬に伸ばしてきた桜庭の手を、如月は払った。じっと見ていると不思議な桜庭の瞳が驚きで丸くなる。
「お前は変態か?」
「勘違いするな。ただの興味だ」
 手をポケットに入れて、桜庭は笑った。
「……如月が狙ってるアミューズメントパーク。うちも参入させてもらうよ」
 そう言って桜庭は先ほどポケットに入れたサングラスを取り出すと、瞳を隠した。



 桜庭竜司……。
 名刺の表に書かれていた名前は宇都木もよく知った名前だった。
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