Angel Sugar

「障害回避」 第14章

前頁タイトル次頁
「邦彦は私が玄関で暫く相手をしているよ。持ってきてくれるかい?」
 真下は立ち上がり、カバンを小脇に抱える。
「申し訳ありません……。すぐにお持ちいたします」
 未来は慌てて、書斎の方へと走った。

 いつも迎えてくれるはずの未来の姿は見えず、何故か真下が食えない笑みを浮かべつつ玄関にやってきた。真下の名前だけでも、あまりいい気持ちがしない如月だ。にもかかわらず、当人をここで目の前にするとは思いも寄らなかった。
「やあ……邦彦。久しぶりだね」
 口元は笑っているのに、眼鏡の奥に見える瞳はクスリともしない。要するに愛想笑いを如月に見せているのだろう。こういう部分が気に入らないのだ。
 だが、如月は知っていた。真下は未来に対して心の底から笑みを浮かべられる男だった。恋愛感情がないというのは分かっていても、そういう二人の間柄を見せられて、気にくわないのは仕方がないはずだ。
「未来にご用だったのですか?」
 靴を脱ぎ、自分で揃えたスリッパを履いて、如月は真下に聞いた。
「ああ。東家の書類を今いくつも預かってもらっているからね。処理が終わったものを引き取りに来たんだよ」
 真下はいいつつ、己の靴を履く。
「珍しいですね。真下さんが外を出歩かれるのは……」
 別に皮肉のつもりではなく、単に如月が疑問に思ったから口をついて出ただけだ。
「私もたまには外の空気を吸わないとね。気晴らしだよ」
 小さく笑って真下は穏やかに言う。
「確かにそう思いますよ。真下さんはいつも仕事場から出られないようですし、たまには外に出られる方がいい気分転換になるでしょう。未来は今、うちに一人で過ごしていますので気になっていたのですが、話し相手が真下さんなら私も安心です」
「邦彦がそう言ってくれると私も安心だよ……」
 どこか苦笑したような顔で真下は眼鏡をかけ直していた。
「真下さんっ!書類を……」
 宇都木は手に封筒を持ち、珍しく廊下を走って玄関にやってきた。いつもの未来ではあるのだが、どこかおどおどとした様子が窺える。逆に、真下が落ち着いているため、宇都木の様子が浮いて見えるのかもしれない。
「ありがとう。宇都木。じゃあ、私は帰らせてもらおうかな。また連絡をするから、後の書類も悪いが頼んだよ」
 真下が宇都木を労うようにポンポンと肩を叩き、真下は去っていった。
「はい……分かりました」
 帰っていく真下をじっと見つめていた宇都木だったが、扉が閉められると同時に、何かを思い出したように宇都木は顔を上げて、視線を如月に向けた。
「お帰りなさい……邦彦さん」
 強張った顔にようやく作った笑みを浮かべている宇都木のことが気になる。
 何かあったのだろうか……。
 どこか、ピリピリと神経が逆立っているような宇都木の様子に、如月は奇妙な違和感を感じた。いつもとはどこか違う、宇都木の態度が気にかかるのだろう。
「ああ。ただいま。真下さんが来られていたんだな。いつから?」
「つい先ほどです。頼まれていました書類が少しできあがりましたので、ご連絡したのですが、わざわざ真下さんが取りに来てくださって……。せっかく来てくださったのだから、お茶をごちそうしていたんです」
 張り付いた笑みをまだ顔に浮かべて、宇都木は淡々とそう言った。顔の筋肉が突っ張ったような感覚を感じているはずなのに、自分で不自然だとは思わないのが不思議だ。
「何か……問題があったのか?」
 視線を合わせずに前を歩く宇都木に如月が問いかけると、本当に驚いた顔で振り返る。
「……真下さんが、邦彦さんに何か……」
 宇都木を疑うわけではないが、如月は真下から何かを聞いた振りをして見せた。
「……少しだけだ。時間もそれほどあったわけではないし、真下さんも話しにくかったのだろう……」
「そうですか」
 ふいっと視線を逸らせ、宇都木はまた歩き出し、キッチンへと入る。同時に如月も足を踏み入れて、キッチンに立っている宇都木の背を眺めながら椅子に腰を下ろした。
「未来……」
「今晩は、ロールキャベツを作ったんです。夕食は済ませてこられました?」
 先ほどとは違う笑顔で宇都木は振り返る。
 痛々しいほど、必死に笑おうとしているのだけは如月にも分かり、思わず椅子から腰が上がった。
「ロールキャベツも食べてみたいが、先に……未来。こちらにおいで」
 促すように手を差し伸べると、宇都木は迷うような足取りでゆっくりと近づいてきた。
「邦彦さん……」
 如月の手を掴み、左右に振りながら、宇都木は俯いていた。
「なんだ。抱きついてくれないのか?じゃあ私が抱きしめてやる」
 棒立ちになっている宇都木の身体を引き寄せて、如月は細い身体を抱きしめた。違う。どう考えても以前より痩せた。回した手の余り具合が、いつもより少し多いのだ。
 未来は、悩んでいるんだ……。
 宇都木が何かに悩み出すと、食が落ちる。普段からもあまりたくさん食べる方ではないが、一つのことに集中したり、悩みが出るとこんなふうに身体の肉が落ちる。悪いことに、もともと顔の肉が削げる方ではないために、衣服から覗いている部分だけではすぐに痩せたことが分からないのだ。
「未来……お前、痩せたな?」
「いいえ……」
 嘘を付くのも下手だった。
「抱きしめている手がいつもより余っているぞ」
 頭を撫で、胸板にすり寄るようにして頬を埋めている未来の方を見る。だが、俯き加減に瞳を閉じているため如月には宇都木の表情が読みとれない。
「じゃあ、痩せる季節なんでしょう……」
「なんだそれは……」
「邦彦さん」
 ようやく顔を上げて如月の方を見る宇都木は、先ほどより顔の赤みが戻ってきているように感じられた。とはいえ、不安げに揺れる瞳は誤魔化せない。
「なんだ?何でも聞いてやるぞ」
「私、東家の重要書類も今回引き受けているのですが、気晴らしに……ということで、真下さんからもう一つ頼まれているものがあったんです」
「何を頼まれているんだ?」
 それは如月にも初耳だった。
「あの……邦彦さんもご存じだと思うのですが、鳩谷恵太郎くんのことです。彼、本当に勉強が苦手で……。以前、邦彦さんが長期出張に出られたときに、家庭教師をしていたことは覚えていらっしゃるでしょう?その時は成績も上がったんです。でも、今、また学力が低下してきたらしくて……。本当に困りますよね?まだ学生さんなのに、本当に勉強の嫌いな子供さんなんですよ。そう言う事情で、真下さんからこちらも頼まれて、私がテスト問題を作っていたのですが……。上手く作れたかどうか……。あの、こういう子供を勉強好きにするにはどうしたらいいと思いますか?」
 一気に話さなければ……という口調の宇都木は、どこから見ても奇妙だ。
「未来……」
 宇都木の額にかかる髪を撫で上げて、如月は穏やかに言った。
「はい」
「何を隠そうとしているんだ?私では力になれないのか?真下さんの方が私より信頼ができるのか?……いや、それならそれでいい。お前が少しでも気分が落ち着くのなら……ね。だが、最近のお前は妙だ。いくら私でも気がつくぞ。そんなお前を心配している私には何も話せないことなのか?私は未来の恋人なんだぞ」
 声を荒げることなく、言い聞かせるように如月は言った。
 以前のことで如月も学んだのだ。
 怒鳴るように問いつめても、話したくないことに対して宇都木は絶対に口を開かないのだ。無理矢理問いつめても、ギスギスしたものが残るだけだ。なら、穏やかに話をするしかない。もし、宇都木が何も話してくれなかったとしても、けんか腰に怒鳴るより、後の精神的負担がお互い軽く済む。
「本当に……何も……」
 顔を左右に振って宇都木はまた苦しそうな笑みを作った。
 そこに一本の電話が鳴り響く音が聞こえ、宇都木は如月の拘束から逃げ出すように身体を離した。
「電話……取りますね」
 キッチンにも受話器はあるのだが、宇都木はリビングの方へと走っていく。その姿を苦い気持ちで如月は見送るしかなかった。

「もしもし……」
 如月の質問から逃れるように宇都木は受話器を耳に当てた。ホッと安堵すると共に、申し訳ない気持ちが心を覆って、それを解消する術を見つけられない。
『……あんた、宇都木さんか?』
 聞いたことのない男の声であるのに、宇都木は何故か心臓の鼓動が早まった。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP