「障害回避」 第32章
私ができることを探そう……。
ここにいて、できること。
宇都木はベッドから下り、真下のいる隣の部屋へ移動しようとしたが、すぐそこまでの距離が立ちくらみによって歩けず、床に座り込んでしまった。体力がとことん削がれてしまっているのだろう。
宇都木は恵太郎がサイドテーブルに置いていった朝食に視線を向ける。食欲は全くないが、何かをするには体力が必要だった。
宇都木は這うようにしてサイドテーブルまで移動すると、なんとか椅子に腰をかけた。息をつくのも辛いが、ここでくじけるわけにはいかない。どうあっても如月の力になり、桜庭の鼻を明かしたい。ただ、それだけの思いが今の宇都木を支えていた。
サイドテーブルには消化の良いオニオンスープが皿に、籠にクロワッサンがいくつか入っていた。ホットミルクはすでに冷め、カップから立ちのぼっていたであろう、湯気は見あたらない。
宇都木はスプーンを手にとって、オニオンスープを一口呑み込んだ。胃が染みるような痛みを訴えてきたが、吐き気はしなかった。逆に、何も胃に入れていなかったためか、突然入ってきた食べ物に、胃は歓迎をしているようだ。
オニオンスープを全て飲み干すと、宇都木はクロワッサンを小さくちぎって口に放り込んだ。何度も噛みしめ、呑み込む。カサカサした生地が水分を吸収し、すぐに喉が渇くため、ぬるくなったミルクを流し込んだ。
味がほとんど分からないが、それでも胃の中に食物が入ったことで、気分が落ち着いてきた。指先まで冷えきっていたはずの身体が、徐々に温もってくる。
もう一つ食べておこう……。
クロワッサンを手に取り、先程と同じようにちぎっては口に放り込み、噛みしめた。桜庭に屈することだけはしたくない。如月を勝たせることが、宇都木にとっての勝利だ。勝ち負けにこだわらないと如月は言ったが、宇都木はどうあってもアミューズメントパークだけは如月に取って欲しかった。
こんなことにこだわるなど、低次元な話だ――と、笑われてもいい。
自分の身体まで差し出すなんてなんて馬鹿な男だと言われてもいいのだ。
他人がどれほど宇都木の行為に眉を顰めようと、構わない。
あの男だけは許せないのだ。
腹がいっぱいになったところで、宇都木はゆっくりと立ち上がった。胃は重く感じるものの、立ちくらみに似た貧血は襲ってこなかった。
宇都木は一歩、一歩、足を進めて、ドアを開けた。すると、パソコンを叩きながら、電話をしている真下と目があった。真下は宇都木が部屋から出ていこうとしていると思ったのか、手の平を見せて『そこで待っていなさい』という仕草を見せた。
宇都木はソファーに座り、真下が電話を終えるのを待つことにした。テーブルには雑然と書類が置かれている。どれもこれもが宇都木には懐かしい。だが、あまりジロジロと眺めるわけにもいかず、宇都木は手を組んでソファーに深く凭れた。
何から始めたらいいのか……。
宇都木はそればかり考えていた。ここからは決して出してもらえないことは分かっている。逃げだそうとしても途中で掴まるに違いない。いや、今の宇都木ではとても逃げ切れないし、出たところで行き場はなかった。
「未来、どうしたんだい?」
電話を終えて、真下が近づいてきた。真下はいつもの笑顔を浮かべ、穏やかだ。
「私にも何か仕事を与えてください」
宇都木の言葉に真下は口元に笑みを浮かべ、対面のソファーに腰を下ろした。
「急がなくても、仕事はすぐに用意してあげられるだろう。暫くは休んでいなさい。もっとも未来には休む時間の方が苦痛だろうが」
「何かしていないと落ち着かないんです。どんな仕事でも……ということには頷けませんが、あの男を一泡吹かせたいんです。私は……」
真下が妙に落ち着いた様子でじっと宇都木を見ていることに気付き、言葉が詰まった。この問題は宇都木が大きくしてしまったのだ。だからこそ責任を取りたいと思っているが、真下からすると、いや東家の問題としては小さすぎることだ。こんな願いを真下に訴える方が間違っているのかもしれない。
「心配しなくても、私はすでに動いているよ。邦彦も動き出した。ただ、問題があってね……」
真下は困惑したような顔を作っているのだが、口元は笑っていた。
「……それはどういう問題でしょう?」
「邦彦をサポートしている香月という新しい秘書がもう少し頑張ってくれるといいんだが、履歴を見る限り、真面目だが坊ちゃんすぎて、型どおりにしか動けない秘書のようだね。普通の秘書としては、まあ、使えるかもしれんが、こういう突発的な自体には弱いタイプだ。その分、邦彦が余計な時間を取られてしまうことになる。どう思う?」
「私が……いえ」
もし、自分が秘書として如月の側にいるのなら、如月が動きやすいように手配できる。だが、それはどうあっても望めない。自分はすでに秘書ではなく、その上、社員でもない。
「香月は適切な指示があれば、充分働いてくれると思うが、どうかな?」
真下はその思惑が読みとれないような事を言った。
「……適切な指示ですか?」
「そうだね。香月は、正しく導ける人間のアドバイスがあれば、それを忠実にこなす能力はもっているよ。ただ、今の邦彦には面倒な男になっているはずだから、適切な指示を出す時間すら惜しくて、香月のことは放置しているだろう。邦彦の事情も分かるが、それは香月にとっても良くない。しかも、余計な負担を邦彦が負うことになる」
意味深な言葉に含まれた真下の優しさを宇都木は読みとることができた。真下は、宇都木に対して、香月へアドバイスをしてやれと言っているのだ。それならば、側にいなくても、宇都木は如月の力になれるはずだと。
「私に……電話を貸してください。いえ、携帯を返してくださいますか?あと、パソコンも……」
死んだように濁っていた宇都木の瞳にようやく生気が戻ってきた。身体はガタガタなのに、このまま何キロも走れそうな気分になる。宇都木が望んだのは、如月の力になること。それが叶えられることが、自分が生きている実感を味わえるただ一つのものだった。
「いいよ、許可しよう。未来の携帯を返そう。あとパソコンもすぐに用意させる。一部の情報は閲覧できるよう、仮のパスワードも発行するが、無駄な事には使わないように。あと、無駄話も厳禁だね。見つけたら取り上げる。それは理解してくれているかな?」
真下は、ある程度の権限を与えてやるが、桜庭とはコンタクトを取るなと、暗に言い含めているのだ。それは当然のことだと宇都木も理解していた。
「はい。大丈夫です」
「ようやく未来らしくなってきたね。しばらく私も安心できるよ」
「本当にご迷惑をかけてしまって……」
「ただ、覚悟はして置いた方がいい。周囲が動き出せば、桜庭もなりふり構っていられないようになる」
隠したかったことを明らかにされるかもしれない。そうなってしまったとき、どれほど心構えをしていたとしても、耐えられるものではないだろう。如月にも黙っていられなくなる。
よく、噂で耳にはいるくらいなら、自分でうち明けた方がいいと考える人もいるが、宇都木はどちらも耐えられない方なのだ。自ら言えることもあるだろうが、言えないことだってある。的を射ていればいるほど、噂であっても聞かれたくない。
自分の精神が実は酷く脆いのだと自覚はしているが、性格的なものであるので、どうしようもないのだ。話してしまった方が楽だという気持ちはある。だが、言い出せないものは仕方ない。
いつかばれる……。
その日がいずれやってくることを覚悟しつつも、宇都木は今できることをやるしかない。
「大丈夫です」
「……本当にそこまでの覚悟をしているなら、私は何も言わないよ」
真下はなんとも言えない笑みを浮かべて、そう言った。
兄の秀幸に頼んだ件が、昼過ぎにはメールで連絡が入った。
メールには規約のような箇条書きが沢山書かれていて、最後に『R』の署名がある。これが兄の言う、信頼の置ける人物なのだろう。捨てメアドを使っているところから、いつでも連絡を絶てるようになっていた。
報酬は成功した後での支払いになるようで、何をもって報酬とするかという記載はなかった。メールは読んだあとすぐに削除することも書かれ、削除の方法から詳しく書かれている。また、メールを転送することも、プリントアウトをすることも不可だった。相手は時に法を犯す行為を行っているため、向こうの要求を厳重に守ることをこちらに要求しているのだ。
とはいえ、如月にとって守れないほど難しいことは求めてはいない。あとはこちらが用意する、潰そうとする相手の企業に関する情報の請求について書かれていた。
これは神崎にも動いてもらっているからいいな。
市場操作を行う相手は日本人かどうかも分からないため、できるだけ詳しい情報を伝えなくてはならないだろう。
裏で桜庭に手を貸そうとしている企業もリストアップを急がなければ……。 どうせ今回、甘い汁を吸うことができなかった企業が、こそこそと神崎に近づいているのだ。だいたい、談合が成立していても、それを上回る入札額が当日提出されたら、全ては水の泡だ。もちろん、金をいくらでも出すことができるのならいいが、何千億を右から左に用意できることなどできない。たとえ用意できたとしても、その結果、大赤字を抱えてしまうのなら、本末転倒だ。あくまで適切価格、もしくは若干高い位の金額ででけりを付けなければならない。
「あの……」
メールを打っていると、香月がビクビクしながら近寄ってきた。