「障害回避」 第9章
どういうことだ?
思わず如月は社員データを呼び出して、社員それぞれに割り当てられている社員コードを呼び出して、宇都木のコードを検索してみたがそれがどういうわけか、香月のものになっている。
おかしいぞ……。
社員のコードは全社共通コードだ。空きがなくて宇都木のものを香月に割り当てているわけなどない。入社時期を含めた一定の法則があるため、同じものはないのだ。しかも、香月は宇都木がいたころにこちらの会社に転勤になっているはずであるから、最初に割り当てられたコードがあったはずだ。
それがどうして、変わっている?
「香月。宇都木の氏名コードがお前のものになっているが、どうなってる?」
ノートパソコンから顔を上げて、書類と格闘している香月の方を見る。すると、香月は突然声を掛けられたためか、驚いてまた机の上に置かれていた書類を床にばらまいていた。
「……そう、驚かないでくれないか……」
「すみません。あの、氏名コードは総務の方でこちらに配属される前、変更になると聞かされていて、事情はよく分からないんです。多分、電算処理上の問題だとは思うのですが……」
困惑しているのは香月も同じようだ。
「そうか」
現在はIT化が進んでいて、紙として残す書類が減っているのだ。以前までは経費などの申請を紙媒体で処理していたが、今では全てパソコン上で処理され、全てが終わった後で紙とデジタルでの保存をしているのだ。データが吹っ飛んだとき、やはり打ち出された書類は強い。その理由から、決済が役員にまで及ぶ書類に関しては、まだ紙としてやりとりをしているが、経費などは全てデジタルで処理をされていた。その方が会計の方も助かるというわけだ。
「宇都木さんは辞められた方だとうかがっていますし、問題はないのでは?」
きょとんとした顔で香月は言う。
社内での話と、如月が聞かされている話が食い違っている。
真下の話では東家の仕事を暫くしてもらいたいから、宇都木の手を借りたいと言った。宇都木にしか任せないことだから、無理を言って済まないとも聞かされた。もちろん、如月は最初拒否したが、通るわけもない。この会社自体が東のグループのものであり、最高位の人事は東……いや、真下が握っていると言っても過言ではないのだ。
当然、いちいち会社の人事に口を出してくるわけではないが、一旦こうしたいと希望が出たら、誰であろうと逆らうことを許してもらえない。それが東家のやりかたで、企業グループを統括している東のやり方だった。
渋々、如月は頷かざる終えなかったが、それでも期限を切られていない暫くの間だった。期限が決められていないことに対しても不満を口にできない自分が口惜しい。だが、辞めさせるという話は聞いていなかったし、真下もそのことには言及していなかったはずだった。
「辞めたわけじゃない。暫く休みを取っているだけだ」
不機嫌この上ない表情で如月が言うと、香月はさっと視線を逸らせて肩を竦める。如月ですら状況を把握していないのに、香月が知るわけなどないのだ。しかも、宇都木の氏名コードを割り当てられたのだから、辞めたと思ってしまうのも当然なのかもしれない。
「……それで、総務の方もそう言っていたのか?」
「いえ。はっきりとは聞いていません。噂でした。申し訳ありません」
「謝る必要はないさ。ただ、辞めたわけではなくて、暫く他の仕事でかり出されているんだよ。それが済み次第、戻ってくる予定になっている」
「そのつもりで頑張ります」
香月はようやく作った笑みを表情に浮かべていたが、あまり嬉しそうには見えなかった。当然と言えば当然だ。今までいた部署から無理矢理こちらに移動させられ、しかも、ピンチヒッターだと言われると誰しもいい気持ちなどしないだろう。
それでも、如月ははっきりと香月には「宇都木の留守の間だけ……」と言うのを強調しておきたかったのだ。
私情だと言われてしまえばそれまでだが、この先、どれほど香月が仕事をそつなくこなしても、如月にとって自分の秘書は宇都木しか考えられない。
それにしても妙だな……。
宇都木のデータがどこかに紛れていないか、如月はあちこちのファイルを探して、キーボードをカチカチと打っていた。だが、該当するファイルが全て、綺麗さっぱりなくなっていた。
不自然だ……。
普通なら、社員としての経歴があるはずだ。
つい、先週までここで働いていたのだから、もし、退職扱いになっていたとしても、いつからいつまで雇用されていたのかというデータがないとおかしい。それすら残っていない。まるで、宇都木がここで働いていたという事実すら消してしまおうとしているかのようだった。
真下さんに連絡した方がいいか?
如月がそう思い立ち、椅子から立ち上がると香月も立ち上がる。
「どちらへ?」
「手洗いに行くことまで管理しなくていいさ……」
苦笑いしながら手を振って、如月は部屋から外に出ると、手洗いではなく屋上に向かうためにエレベータに乗った。
どこで誰が聞いているか分からないからだった。
屋上は社員たちが昼間バレーボールができるようにラインが引かれて、ネットが据え付けられている。それが二面あった。
他は土が敷かれていて簡単な公園が作られ、真ん中に噴水が設置されている。円状になっている噴水の周りには、木で作られた長いすがぐるりと取り囲み、小雨であってもそこでくつろげるようにぐるりとオープンの屋根が囲んでいる。
休憩時間ではないために、社員は誰もいなかった。如月には好都合だ。
長いすに腰を下ろし、噴水を眺めながら如月は真下へ携帯から電話をかけた。あの男はいつだって、自分の部屋にいるから必ず出るだろう。
予想通りツーコールで真下は出た。
「私です。邦彦です」
『ああ。昨日は済まなかったね。で、突然連絡とはどうしたんだ?』
いつも通りの真下の声だった。
「うかがいたいことがあります」
『どういったことだね。場合によっては答えられないこともあるよ』
これもいつも通りだ。
「心得ています。ただ、はっきりさせておきたいのです。真下さんが是非ともとおっしゃられたので、私は宇都木を暫く東家に貸し出すことに同意しましたが、あくまで私の秘書です」
『何度も言われなくても分かっているよ。こちらが無理を言ったんだ。君が快く了承してくれて東様もほっとされている』
「ですが、うちでの宇都木の扱いが……退職よりひどいことになっています。宇都木のデータ自体を消すなどと、そんなことはうかがっていませんし、これでは話が違います」
興奮しそうな自分を必死に抑えつつ、如月は言った。
『君に未来は大事にされているようだね……』
どこか嬉しそうな声だったが、そんな話を如月はしているわけではないのだ。真下が上手くはぐらかそうとしているようにしか聞こえない。
「私が申し上げたいのはそういうことではありません。どうして休職扱いではなくて、データ自体が抹消されているんです?しかも、宇都木の氏名コードは新しく来た秘書の香月くんのコードになっています。それも、不自然です」
仕事中でなければ、東家にいる真下の元へ怒鳴り込みに行きたい気分だった。
『ああ、それは会計上の問題だよ。役員の経費処理は全て秘書のコードで行っているからね。しかも役員の経費は一括で管理されているから、誰がどれだけ使ったかという計算をするときに、コードがバラバラだと管理しづらいんだろう。二度手間を省くためだと私は思う』
私は思う……のではなくて、あんたが、命令したんだろう……と、本心ではそう言ってやりたかったが、とても如月には口出しできることではなかった。会社の経費のことは、会計のやりかたがあって、一応、名目上は真下も口を出せない……はずだ。
「そうですね……」
『分かってくれたかな?宇都木を君から取り上げる気は無いよ。もっとも、私自身はそうしたいといつも思っているんだが、宇都木が納得してくれないからね。邦彦は安心していたらいい』
どう安心しろというのだろうか?
如月は、言いたくもない礼を口にして携帯を終えた。
宇都木にもう一度、聞くしかないか……。
話してくれるとは思わないが。
ポケットに携帯を戻して、如月はため息をついた。