「障害回避」 第36章
「恵太郎さんはお父さんのことを覚えていますか?」
「滅茶苦茶な人でした。そういう意味でよく覚えてるってところかなあ……。だって、子育てより自分のやりたいことを優先するような父さんだったし。でも、子供の僕が言うのも変なんですけど、父さんって変な徳を持っていて、何をやっても憎めないっていうか……。もう、僕、振り回されてばっかりで、本当に自分の父親なのかって疑ったことありました。でも父さんと過ごした時間が一番幸せで、楽しかったです」
はにかむような笑みを浮かべて、恵太郎は上下に振る手を更に大きくした。
「素敵なお父様だったんでしょうね」
宇都木も恵太郎の父を知っていた。といっても言葉を交わしたことはなく、いつも夜に真下の部屋を訪れる男だった。玄関から入ってきたことがなく、気が付くと廊下を歩いていたり、突然通路に現れたりと宇都木はよく驚かされたものだった。目が会うとなぜかにっこりと笑ってウインクを飛ばし『今度遊んでくれよ~』と言うのだ。それは口癖になっていたもので、実際に誘われたことなどない。
「宇都木先生のご両親はどういう方だったんですか?」
子犬のようなくりっとした瞳を宇都木に向けて、恵太郎は訊ねるように見上げた。
「私も恵太郎さんのように早く両親を亡くしました。でも貴方のように覚えていないんですよ」
幸せだったことより忘れたいことの方がよく覚えている宇都木には、この話題から早く逃れたかった。自分から振ってしまった話題であるのに、情けない。ここで無理やり話題を変えたり、今朝のようにきつく怒鳴ってしまうと、恵太郎はまたもや宇都木のせいで萎縮してしまうだろう。
「そういえば、恵太郎さん、真下さんが私を呼んでいる理由をご存じですか?」
「いえ……。でもちょっと難しい顔をしてたかも……」
口をちょっと尖らせて、視線を上に向けている恵太郎は、真下のことを思い浮かべているのだろう。
「難しい顔?」
「真下さんってあんまり顔に出ないタイプなんですけど……あっ、宇都木先生はご存じですよね?」
「ええ……」
「でも僕、ここに住んでちょっとだけ分かってきたんですが、何か問題があったときって、真下さん、眉間にこうちょっと皺を寄せるんです」
恵太郎は人差し指で自分の眉間を押さえて、真下の表情の真似をしてみせた。それがとてもよく似ていて、宇都木は『何か問題のあったとき……』という言葉が気になりつつも、笑ってしまった。
「……恵太郎さん、それ、真下さんの前で是非やって見せてください」
「えっ、駄目ですっ。あ、内緒にしておいて下さいね。だって、今、僕、真下さんから逃げてるんです……顔を見るとすぐ勉強のことばっかり言うし……」
「冗談ですよ。分かってます。さあ、ご自分の部屋に戻って今度こそ勉強に集中してくださいね。でも亀は先に水槽に入れてくださいね」
屋敷の裏口へ戻ってくると、宇都木は恵太郎の手をやんわりと離した。恵太郎の戻る場所は、離れの洋館の方だったのだ。それを本人が理解しているのかは、謎だった。
「え……あ。はい……は~い……」
気が重そうな返事をしつつも、恵太郎はとぼとぼと亀を握りしめたまま、離れの方へと歩いていった。肩を落とした後ろ姿を眺めつつ、宇都木はカードを使って裏口を開けると中へと入る。
真下が難しい顔をしていたとなると、桜庭に動きがあったのだろうか?
あの男をこの世から消すことが出来たら……そんな物騒な考えを持ったことも宇都木はあった。自分が傷つくことに対してそう考えたわけではない。桜庭は宇都木を手に入れたいと思っているわけではなく、如月目当てであることに気付いているからだ。もっとも、如月は桜庭の思惑など予想もしていないだろうが。
桜庭は如月のあの青い瞳に魅入られている。
ニューヨーク支社でのこと、とあるビルの竣工パーティが華々しく行われた。各界の財界人や、それに携わったあらゆる人間が呼ばれ、ビルのエントランスは華やかな人々であふれかえった。
宇都木は当時まだ真下の下で働き、東京とニューヨークを往復していたのだが、ニューヨーク支社長に勧められ、パーティのチケットをもらった。華々しいところが苦手な宇都木だが、パーティに参加していた如月の姿を一目見ようと、こっそりともぐりこみ、柱の影からそっと如月の姿を見つめていた。
落ち着いた紺色のスーツを身に纏った如月は、瞳の青さが際立っていた。漆黒の髪に、端正な容貌、それだけでも目立つ存在であるのに、彼の青い瞳は人を惹きつけずにはいられない。また如月の洗練された優雅な身のこなしと流暢な英語。宇都木でなくても世の女性が放っておかないはずだ。むろん、如月の周りには彼目当ての白人女性が群がり、アジアのエキゾチックな瞳に魅了されていた。
いつ見ても綺麗な瞳……。
柱の影からグラスをかざし、如月の姿を眺めていたが、窓側に立つ男が宇都木と同じように見ていることに気付いた。遠目でよく分からないために、人目を避けるよう、壁伝いに移動して、男の姿を確認するとそれが桜庭だった。
桜庭が如月に絡んでいることは聞き及んでいた。企業間のバスケの試合で恥をかかされたと勘違いし、その恨みからだろうと密かに噂されていたが、大の大人がその程度のことであれほど絡んでくるとは思えない。理由が他にあるのだろうと考えていたが、桜庭も宇都木と同じように如月の瞳に焦がれているとは想像つかなかった。
けれどあのとき確信したのだ。
夢見るような瞳で如月を見つめる桜庭を見て、宇都木は確信した。
桜庭もあの瞳を手に入れたいと思っている……と。
悪いことに如月はいつもと違い、シャンデリアの明かりが目に反射して、宝石が海底で揺らめいているような不思議な光を瞳に宿していた。これでは興味がなくても、思わず魅入ってしまうだろう。
桜庭自身も変わった瞳を持っていた。片方は黒く、もう一方は薄い色素で、陽に当たると瞳の色の淵だけ色味が残り、ごく薄い茶色になる。それを綺麗と表現する人もいれば、宇都木のように気味が悪いと思う人もいるだろう。目の色が問題ではない。決して差別的な目で見たのではない。
執拗に見つめる桜庭の瞳に、宇都木はゾッとしたものを感じたのだ。
この世に陰と陽があるとすれば、如月の瞳には陽が宿り、桜庭の瞳には陰が宿っている。陰に魅入られた人間の瞳をかつて宇都木は見たことがあった。それは両親の瞳だ。陰に囚われると、それが全てだと勘違いし、誰の助言も聞かず、助けを振り払い、自分の考えのみに固執してしまう。
過去に見た、二度と見たくないものを桜庭の瞳に宇都木は感じ取っていたのだ。
あの男はどう動くのだろう……。
宇都木は身体を小さく震わせて、真下の部屋へと入った。
「ああ……すまないね、呼び戻してしまって……」
「いえ、なにかあったのでしょうか?」
「隠したところでいずれ宇都木は知るだろうから、さきに話しておくよ」
真下はそう言って一冊の週刊誌をテーブルに置いた。