Angel Sugar

「障害回避」 第7章

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 仕方ないことなのに……。
 如月の仕事上、秘書がいなければとても一人で切り盛りなどできない。それは、宇都木が秘書として如月のフォローをしていてもよく分かっていたことだった。だから、必ず自分の変わりに誰かが一時的とはいえ、如月の秘書になるだとうろとは予想していた。
 とはいえ、香月湊とは予想しなかった。
 転勤してきて間もないことが理由だが、確か他の部署に回されていたはずなのだ。それがどうして香月に回ってきたのか分からない。もともとが秘書をする男ではなかったからだった。
 肩が急に重くなったように感じられたが、この状態がしばらく続くのだ。しかも、いつ復帰できるか未定だ。香月がどれほど仕事ができるか宇都木も知らなかったが、有能であれば、全てが終わった後で如月の秘書として戻ることができるのか分からない。宇都木が今度別の部署に回される可能性の方が高いだろう。
 邦彦さんは……。
 もう一度私を選んでくれるんだろうか……。
 不安だけが膨らんで、何かに押しつぶされそうな気分になる。今まで望んで叶った希望は数えるほどしかないのだ。
 でも……。
 邦彦さんがいてくれる。
 もし、二度と秘書として戻れなかったとしても、恋人の如月は側にいてくれるのだ。それだけでも宇都木は満足できるだろう。ただ、心配なのは香月が如月に心酔していることだった。あの男がどういう目で如月を見ているのか、そこまで宇都木も分からないのだ。
 見たことはある。
 香月はすらりとした長身で、爽やかな笑顔を持っていた。人なつっこい瞳をいつも周囲に向けていて、嫌みがない。温かい家庭で育ったことが分かるような、男だ。宇都木が最も嫌いなタイプだった。
 やめよう……。
 こういうことを考えるのは……。
 自分が不幸だとは思わないが、どうしても「温かい家庭で育った人間」を目の当たりにすると、宇都木は目を逸らせたくなるのだ。それこそ、人を羨んでも仕方のないことなのだろう。本人が選んでその家庭で育ったわけではないからだ。
 子供は両親を選べない。
 もし、宇都木があの亡くなった両親から生まれていなければ、東家に引き取られることもなかっただろうし、如月に出会うこともなかったはずだ。如月のことを知ったのは、兄である秀幸の身辺調査を行ったときだったから。東家にもし宇都木が秘書として雇われていなかったなら、きっかけは訪れなかったに違いない。
 私は……。
 私の人生を生きてきた。
 そしてあの人に出会えた。
 だから……。
 人を羨んでは駄目。
 ようやく宇都木が気持ちを落ち着けると同時に携帯が鳴った。
「はい。宇都木です」
『香月です。もう、お聞きになったと思いますが、下の階の部署から今度、如月さんの下で秘書として働くことになりました。それに当たって、宇都木さんからざっとで構わないのですが、引き継ぎをしていただこうと思ってご連絡させていただきました。お時間、よろしいでしょうか?』
 香月は一気に話したような気配があった。緊張しているのか、やや口調に滑らかさがない。
「ええ。伺っています。突然のことで、香月さんもとまどわれていると思います。このたびは本当に申し訳なく思っています」
 こんな言葉など口から出したくなかったのだが、宇都木が拒否するわけにもいかない。
『いえ、私にとっては嬉しいことでしたので、お気遣いなく。あの……先に、宇都木さんのデスクに置かれているパソコンのパスワードを教えていただけますか?ここに如月さんのスケジュールが入っているらしいんですが、パスワードがないと開かないんです……』
 困ったような声に、宇都木は返す。
「ええ、私の宇都木という名前をアルファベットで逆から打っていただいて、あと、数字で4、7、8、3と半角で打っていただければ大丈夫です」
 宇都木がそう言うと、受話器からはカチカチという音が入ってきた。今、ちょうど香月はパソコンを開けようとしていたのだろう。
『あ、開きました。朝からこれで悩んでいたんです。助かります』
 ホッとしたような香月の声に、やはり宇都木は羨ましい気持ちを抑えることができなかった。いつもは自分がしていることだ。朝から如月のスケジュールをチェックしたり、調整をしたりするのが、仕事ではなく楽しみになっていたのだから、それが人の手に渡ってしまうことは、羨ましくて、辛い。
「フォルダごとに分かるようにしていますので、なにか分からないことがありましたら、その都度ご連絡を頂けたらお答えいたしますね」
 自分の感情を必死に抑え、宇都木は淡々と答えた。刺々しい言葉にならないように、配慮しているのだ。あまりにも香月にとって不快な態度でも取ろうものなら、いずれ如月の耳に入るに違いない。
 如月には嫌な男だと宇都木は絶対に思われたくないのだ。例え、どうあっても渡したくない自分の仕事を他人に任せることになったとしてもだった。
『はい。私にも非常にわかりやすく宇都木さんは整理されています。宇都木さんは本当にすごいですね。私もこのくらい細やかに如月さんをサポートできるように努力します。ありがとうございました。また分からないことがあったらご連絡させていただきます。とりあえず、仕事上差し支えがない程度に把握できるよう、自分でいろいろと試行錯誤してみますね』
 張り切るような口調で香月は言い、携帯を切った。試行錯誤するのはいいが、あまり勝手にいじらないで欲しいと宇都木は思いながらも、今のところ自分は秘書の立場ではないのだから、口出しはできないのだろう。
 香月は突然の幸運に今頃、内心ではほくそ笑んでいるかもしれない。なにより如月と同じ会社で働きたかった男だ。そして、ニューヨークからも追いかけてきて、もし宇都木が秘書としてまだあそこにいたなら、絶対に配属されないであろうところに、香月はいま存在している。
 普通なら、仕事を放棄したかのように思える、突然の事態に多少なりとも不満があるに違いない。なにもかも自分で探さなければならないからだ。だが、香月からは全くそんな雰囲気など感じられなかった。
 やはり、香月は心から如月の側で働けることに喜んでいるのだ。
 だから、不満とも考えないし、逆に突然転がり込んできた幸運に感謝しているに違いない。
 もっとも、宇都木は香月があれだけで電話を切るとは思いも寄らなかった。他にもいろいろと聞かれるだろうと予想していたのだ。
 もしかすると、宇都木のやり方をそのまま引き継ぐのが気に入らなくて、本当に分からないことだけを聞き、あとは自分のやり方で染めていこうとしているのかもしれない。
 ……。
 また、こんなことを考えてる……。
 どんどん、自分が嫌な人間になっていくような気がした宇都木は今までの考えを振り払うように顔を左右に振った。これではすぐにでも参ってしまう。
「まだ一日目なのに……」
 携帯をテーブルに置いて、宇都木は呟くように言った。
 一日目から既に自分がなにをしていたらいいのか分からず途方に暮れている。いままでこんなふうに時間をもてあますことがなかったのだ。いつだって、何かに没頭していた。振り回されるくらいがちょうどいいのだ。そうすれば、物事に深く囚われないからだった。
 没頭していなければ自分の価値が見いだせない。暇な時間があればあるほど、自分の生きている意味を見失う。
 如月と二人でぼんやり一日過ごすのとは違い、一人で全くなにもしない時間というのは空虚なものに押しつぶされそうな錯覚に囚われるのだ。かといって、趣味を持たない宇都木だ。時間の潰し方など思いつかないし、なにもない。
 はあ……。
 テレビを見るのも煩わしかった。雑音にしか聞こえないからだ。かといって、静寂は考えたくもないことばかり頭に浮かべてしまう。こういうとき、他の人はどうやって時間を潰しているのか聞いてみたいほどだ。
 宇都木はソファーにごろりと横になり、静寂に浸りながら目を閉じた。
 いずれ警察から呼び出される。
 見つかった白骨が一体どういうものか、結果はいつでるのだろう。今すぐにでも呼び出して欲しいほどだ。そうすれば、とりあえずもてあましている時間が潰せる。だがこう言うときに限って連絡など来ないのだろう。自分で時間を潰すなにかを探すしかないのかもしれない。
 趣味……。
 趣味なんてないのに……。
 なにか見つけようと必死に探すのだが、これといってしたいことがない。
 天井を見つめながら、ぼんやりしていると、また携帯が鳴った。
「はい。宇都木です」
『ああ、私だよ。真下だ。警察に出頭するのは今週末の土曜になった。向こうの所轄になるんだが、当日は私が迎えに行くよ。私と、顧問弁護士の小早川さんも同席することになっているから二人でそちらに行くことになるね。朝、9時頃なんだが、予定はなにもいれていないかい?』
 いつもの穏やかな真下の声に、少しだけ宇都木はホッとすることができた。
「ええ。私の方はなにも予定がありませんので、大丈夫です」
『よかったよ。ああ、今日の夕刊に小さく今回のことが載ることになっている。圧力を掛けてあるからお前の名前は一切でないだろう。今のところ犯罪性は認められていないからね。そうだ、先ほどバイク便でいろいろと送ったよ。中には邦彦の目を誤魔化せるような書類も入っているから、それらしく隠すように置いておくといい。邦彦はあれでめざといからな。宇都木が暇そうにしているのを見るとまた不信を抱くだろう。他に、退屈を紛らわせるだろうと思うものを一緒に入れて置いた、そちらはまた今度、感想でも聞かせてくれるとありがたいね。それでも暇をもてあましそうなら、いつでも遊びに来るといい。仕事なら山のようにあるから私も助かる』
 真下は嘘とも本気とも思えないようなことを言って、電話を切った。
 今週の土曜日……。
 宇都木はカレンダーを眺めながら、決着がつくのはまだ先なのだと深いため息をついた。
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