Angel Sugar

「障害回避」 第39章

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 宇都木は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ませ、ベルのスイッチをとめた。晴天なのか、遮光性のカーテンから漏れる光は、闇を切り裂いて、筋状に入り込んでいる。宇都木はゆっくりとベッドから下りて、カーテンを開けた。
 闇から光に晒された瞳はすぐさま景色を映すことなく、宇都木に真っ白な世界を見せたが、しばらくすると、緩やかな風に揺れる木々や、緑豊かな芝生が視界に描き出された。
「……いいお天気……」
 手を額のところでかざし、朝日を遮りながら宇都木は呟いた。昨日は遅くまで真下の手伝いをしていたが、目覚めはすっきりとしている。いつも胸の内にある、鉛を呑み込んだような重苦しいものは、今のところ払拭されていた。仕事をやっているという満足感が、少し宇都木の気持ちを良い方向に向けているのだろう。
 宇都木はシャワーを浴びて、用意してもらっている衣服に着替え、真下がいるだろう隣の部屋へ移動した。真下はいつもは先に起きているはずなのに、珍しいことに室内の明かりをつけたまま、まだ眠りに落ちていた。何度、宇都木が頼み込んでも、自らのベッドを使うようにきつく言い、真下自身は仕事部屋にあるソファーに毛布を持ち込んで眠っていたのだ。出口が仕事部屋の方にしかないのもあり、真下からすると宇都木を監視するためにここで眠っているのだろうが、それだけではないことを宇都木は知っていた。
 真下は温厚で信頼の置ける男であり、自分の部下である秘書達を誰よりも大切にしている。企業に時々いる、自らのことしか考えない無能な上司ではない。真下にとって家族は秘書達なのだろう。だから何かあれば全力で守り、時には厳しい忠告をする。それはここの当主である東も同じだ。
 もちろん宇都木はもう、その立場ではなかったが、真下は今でも宇都木のことも大切にしてくれている。どんな相談にも真下は乗ってくれるし、それを解決するための尽力を惜しまない。そんな真下に宇都木は考えられる感謝の言葉をすべて口にしてきた。だからこれ以上の感謝をどう表していいのか分からない。
「……ああ、宇都木、起きたのかい?」
 人の気配を感じ取ったのか、真下は目を擦りながら身体を起こした。
「すみません、起こしてしまいました」
「いや、いいんだ。ああ……もうこんな時間か。珍しくよく寝たよ」
 テーブルに置いた眼鏡を手に取ると、いつものようにかけた。
「宇都木の方は準備が整っているんだな。少々、気まずいね。ああ、シャワーを浴びてくるよ。朝からの仕事の打ち合わせはもう少し待ってくれないか?」
 小さな咳払いを一つして、真下は立ち上がった。
「ええ。じゃあ、真下さんがシャワーを浴びている間に、私が朝食をお作りします」
「いや、もう少ししたら鳩谷君が運んできてくれるだろうから、宇都木はここで適当にコーヒーでも飲んで、くつろいでいてくれ」
 真下は本来の自分の部屋へ続く扉を開けて、バスルームに向かった。宇都木は部屋のカーテンを開けてから、室内灯を消すと、ソファーの毛布を畳んだ。それを終えてから、ソファーに腰をかけ、テーブルに置かれていたポットから紙コップへコーヒーを注いだ。
 豆の香りが僅かに鼻をつく。温かいコーヒーが胃に入ると、体温まで上がったような気がした。
「真下さん、入っていいですか? 朝食を運んできました」
「ええ。真下さんは今シャワーを浴びていらっしゃいますが、構いませんよ。はい、どうぞ、入ってください」  
 宇都木は恵太郎の声に慌てて立ち上がり、自ら扉を開ける。すると恵太郎はキャスター付きのテーブルを押して入ってきた。そこにはみそ汁や白飯、卵焼き、子持ちししゃも、ほうれん草のお浸しが、一人分ずつトレーに置かれて、三人分用意されていた。
「あの……よかったら僕もご一緒していいですか?」
「もちろん。そのつもりで三人分用意してもらってきたのでしょう?」
「え……はい。だって、いつも僕……あの離れの洋館で一人で食べていて寂しいんです。でも宇都木さんがいらしているときは、僕も一緒に交ぜてもらってもいいかなって思って、僕の分も持って来ちゃった」
 鼻の頭を赤くさせて、恵太郎は嬉しそうに言った。
「私があの洋館で過ごしていた頃は、同じくらいの年齢の方がいらして、とてもにぎやかだったのですが……。でもいまは、学校に通われている年齢の方は恵太郎さんだけですので、確かに寂しいでしょうね」
 秘書として東家に残ったのは僅かだが、当時は洋館の部屋が空くことなどないほどの子供達がいた。それほど沢山の子供を東は引き取り、世に送り出していたのだ。けれど今では秘書の社宅のようになっている。本来の目的で利用しているのは恵太郎だけだった。
「そうなんですか……。そんなに沢山の人がいただなんて、僕、知らなかった……」
 テーブルに朝食を並べながら、恵太郎は驚いていた。
「でも、恵太郎さんには今の環境の方がいいのかもしれません」
「どうしてですか?」
「沢山お友達ができたら、きっと恵太郎さんはお勉強をしなくなるでしょう?」
 宇都木がからかうと、恵太郎は少し考えるような仕草を見せて、口を開いた。
「うーん否定できないところが悲しいかも。僕、世の中から英語と数学が……あと、物理とか科学とかなくなったらいいのにって、真剣に毎日悩んでるんです。悩むとまた手が止まって勉強が進まなくて……これって、悪循環って言うんですよね?」
 恵太郎の正直な言葉に、宇都木は笑いが漏れた。
「違いますよ。それは悪循環ではなくて、怠けていると言うんです」
「ええっ!僕、怠けてません~」
「でも、悩んでいる間、手は止まっているんですよね?」
「……そ、そうですけど……。あ、本当だ。じゃあ、僕、怠けてるってことですね。僕には悩むことも、考えているうちにはいっているんですけど……」
 今気付いたように言う恵太郎に、宇都木はお腹を抱えて笑いたくなった。本当に恵太郎は人の心を温かくする天性のものを持っているに違いない。
「ああ、朝食の準備に来てくれたのか。ありがとう鳩谷君」
 真下が身繕いを終えて隣の部屋から入ってきた。シャワーで温まったためか、眼鏡がうっすらと曇って、いつも見えている優しげな瞳は霞んでいる。真下もそれに気付いたのか、眼鏡を外して苦笑していた。
「はい。でも、僕もご一緒させてください」
「それは構わないが……」
 チラリと視線を向ける真下に宇都木は微笑した。
「ええ。私も恵太郎さんとご一緒したいです」
「そうか、じゃあ、今朝はみんなで一緒に朝食を摂ろうか。たまにはにぎやかなのもいい」
「よかった~」
 恵太郎が嬉々としているところを見ると、ほとんど毎日一人で食事を摂っているのだろう。きっと恵太郎の自立心を養うつもりで真下がそう指示しているに違いない。
 朝食を並べ終えて三人がそれぞれソファーに着いたと同時に、新たな客がやってきた。
「なんだ、君達だけで朝食を楽しむつもりか?」
 剣は無表情でありながらも、不満げな口調で言い、恵太郎を掴んで立たせて、自分が代わりに腰を下ろした。
「坊主、自分の朝食は自分で用意するんだな」
 呆気にとられている恵太郎に剣はそう言って、箸を取る。恵太郎は顔を真っ赤にさせて「用意してきますっ!」と叫んで部屋から飛び出していった。
「お久しぶりです、剣さん。お元気そうでなによりです」
「お前もな、宇都木」
 剣は微笑を浮かべているが、相変わらず上から下まで真っ黒な格好をしていて、その身なりからもどこか怪しい雰囲気が漂っている。
「剣、ご苦労様」
「私は朝までかけずり回っていたんだぞ。なのに戻ってみたら驚くほど和やかな雰囲気だ。ここは一体どうなっている……」
「私たちも似たようなものだよ。仮眠はとったがね。剣の方も一段落というところかい?」
 真下は剣に茶を勧めながら言った。
「今日の株式市場を観客のいる場所で見たいと思って戻ったんだ。こういうことは褒め称えてくれる人間がいるところで、結果を楽しむの方がよりいいだろう?」
 剣はそういって、みそ汁を一口飲んだ。
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