Angel Sugar

「障害回避」 第38章

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「ただいま戻りました」
 香月が入ってきて、自分のテーブルに鞄を置いた。
「遅くまで、ご苦労だったな。それで、どうだった?」
 ねぎらいの言葉をかけて、如月は香月に聞く。
「ええ。おっしゃるとおりでした。桜庭の名前を出すと、みな口ごもるんですよ。すでに向こうからの話があったと思われます。ですが、アミューズメントパークの入札後にある、四物件について優遇する話をいたしましたら、態度が変わりました。もちろん、桜庭の方も同じような条件を出している様子でしたが……。一応こちら側であることは確認がとれています」
 ため息をついた香月は困惑した顔をして額を拭う。
 若い香月からすると、自分より年齢が上の相手と話すことは辛いことだったに違いない。顔色を読みとろうにも、なかなか尻尾を出さないからだ。若い担当者だと、ちょっとひっかけてやると口を滑らすのだが、それなりの経験を経ている相手は、あしらい方を心得ているために、思惑がどこにあるのか、分からないことが多い。
「大丈夫だ。どれほど桜庭の出した条件が美味しいものであっても、最終的にはうちにつかざる終えない状況に持っていく。明日には動くだろう」
 如月が微笑すると、香月は首を傾げた。
「どうされるおつもりですか?」
「桜庭が日本で仕事ができないように、一気に叩くつもりだ」
「……そんなことができるのですか?」
「あまりこういったことを聞くと、ばれたときに香月にも被害が及ぶぞ。お前は知らなかった。その方がいいだろう?」
 パソコンを見つめながら、如月は答えた。
 市場はいつだって見張られているのだ。もし、不穏な動きを見せる集団の存在が明らかになれば、大問題になる。桜庭は如月が手を打ったのだともちろんすぐさま理解するだろうが、それが表沙汰にならないように、知らぬふりを決め込むしかない。仕手戦を直接仕掛けるのは如月ではないから、どれほど調べられようと、こちらに被害が及ぶことはないだろうが、だからといって絶対に安全とは言い切れない。
「私は如月さんにどこまでも付いていく気でいるのですが……」
「はは。宇都木が戻ってきたら、お前を元の部署にもどしてやるから、安心しろ。その短い間に、全てを失うかもしれないという賭け事はしない、聞かないことだ。それ以外のことには協力してもらう」
 如月の言葉に、香月は寂しげな目を見せた。不意に話しておいた方がいいのだろうかと、秘密の共有という甘い蜜に誘われそうになったが、如月は口を閉ざすことを選んだ。
「……分かりました」
「すまないな……犯罪には手を染めさせたくないんだ」
 如月の言葉に、香月はどうしようかというふうに目を彷徨わせ、何かを決心したように、鞄から一冊の週刊誌を取り出した。
「駅の早売りで、思わず買ってしまいました」
 香月は恐る恐る如月の方へやってくると、テーブルに雑誌をおいた。
「なんだ?」
 視線を落とすと、目に入ってきたのは表紙に書かれた見出しだった。

 謎の幼児白骨体に新たな疑惑が。
 巨大グループ企業との関係。

「普段はこういったものを読まないのですが、夕刊を買おうとして目に入ったんです。なんとなく買って、電車の中で読みました。巨大グループというのは……多分、東グループを指しているんだと思います」
 香月に言われなくても、分かる。どうせ桜庭が手を回したに違いない。
「……そうだろう。ああ、もう今日は帰っていいぞ。私はもう少し雑事をこなしてから帰る」
「お手伝いしますが?」
「いや。必要ない」
 一人になりたいという如月の様子を察したのか、香月はそれ以上、食い下がることなく言った。
「そうですか。じゃあ、私はこれで失礼させていただきます。明日はいつも通りの出勤時間でよろしいでしょうか?」
「ああ。……また明日」
 香月が帰ってしまうと、如月はテーブルに置かれた週刊誌を手に取った。どこから見ても三流の雑誌で、如月は一度も購入したことがない。こういう手を使うところが、桜庭が三流であることを証明している。
 愚かな男だと考えながら、如月が中を開けて、該当の記事に目を通した。
「……これは……」
 社員が住んでいた土地から幼児の白骨体が出たというものだった。誰のことを、どこの企業の話をしているのか、匿名にされていたが、知っている人間が読めば、誰の住まいから出たのか、どこの社員だったのかが分かる記事になっていた。
 未来のことか……。
 だから、真下や東家の弁護士がやってきたり、宇都木の様子がおかしかったのだ。宇都木のことは真下から聞いていた。どういう家庭で育ち、なぜ東家に引き取られたのか。それを知っていることを宇都木には一切話さなかったから、この問題を宇都木は如月に話せなかったのだろう。
 これは公になると問題だ。宇都木には関係のないことだろうが、もし両親がその白骨体になんらかの関わりがあれば、スキャンダルだ。それも、宇都木はただの社員ではない。現在は如月の秘書をしているが、もともとは真下の下で秘書として働き、東家の中枢に係わっていた。そこまでのことは書かれていないが、どちらにしてもあまりいい内容とはいえない。
 けれど、新聞に大きく載っていたという記憶はない。本当に犯罪が絡んでいたのなら、警察も動くであろうし、そうなると東家がどれほどの力を持とうと、もみ消すことなどできないはずだ。
 ということはその白骨体は何かの事件に係わるものではなかったのだろう。
 どうして話してくれなかったんだ……。
 宇都木が苦しむ様子を間近で見ていた如月は、いまさらどうにもならないのに、まだ宇都木が側にいたとき、無理にでも聞き出せばよかったと後悔していた。どれほどの苦悩を一人で抱えていたのか、それを思うとやりきれない。ただでさえ、宇都木は自分の両親の話をするのを嫌がる男だ。真下に聞いて事情は分かるが、それはあまりにも辛いことだろう。誰かが抱きしめてやらなければ、一人で宇都木は沈没してしまう。
 本来はその役目を如月がしてやらなければならなかったのに、知らなかったとはいえ、真下が引き受けたのだ。
 この白骨体の件を、宇都木が話せないことを知っている真下が、如月に話してくれていたら……。真下に対して腹立たしい気持ちを持つのは筋違いなのだろうが、如月は思わずそんなことまで考えていた。
 ……今更言っても仕方ない……。
 そう、今、何を悔やもうと、どうしようもない。
 ここというときに、守ってやれなかった如月が、一番、悪いのだ。だからこそ、今度は如月が桜庭を潰し、宇都木を取り戻すしかない。戻ってきたら、如月の方から宇都木の言えなかったことを知っているのだと話し、抱きしめてやればいいのだ。
 如月は両手を組んで、虚空を眺めた。
 打てる手は全て打った。
 明日がどうなるのか――如月にも予想はできないが、最後に笑うのは自分であることを確信していた。
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