「障害回避」 第48章
宇都木の側で夜を明かした如月は、カーテンの閉め切られた部屋で、来たときと同じように椅子に座っていた。
ずっと眠ったままの宇都木が、いつ目を覚ましてもいいように、側についていてやりたいのだ。
どうして自殺など考えたのだろうか。
如月に何か問題があったのか。
それとも自分自身を消したいと思ったことがあったのか。
いや……。
あるのだろう。
桜庭とのことを、ずっと後悔しているのかもしれない。もちろん、如月も未だに思い出すといい気はしないが、かといって宇都木を責めるつもりは一切ないのだ。宇都木は宇都木なりにいろいろ考えて、そういうことを選んでしまった。
そして如月は知っている。
宇都木は如月のためだけに行動する男であることを。
ただ、間違った方法を選んでしまったのだ。きっと桜庭が言葉巧みに宇都木を誘い出したに違いない。もっとも、そんな話を宇都木とするつもりも、如月にはなかった。すでに終わったことを蒸し返す気など無いのだ。
宇都木さえ、いつもどおりに戻ってくれたらそれでいい。
日常で、仕事場で、あらゆるところで、宇都木の存在が視界に入れば、それで如月は安心して日々を暮らしていける。
自分の中で、いつの間に、これほど宇都木の存在が大きくなっていたのだろうか。
あらゆる生活空間に、宇都木という存在があって、それが日常になっていた。宇都木がいない景色の方が違和感を覚えるほどに。
宇都木が口を開かず、そこにただ佇んでいるだけでも、如月は仕事がはかどる。どんな時でも安心していられる。それは宇都木に対する絶対的な信頼を、如月が持っているからだ。
仕事でも、日常でも。
如月にとって宇都木はかけがえのない存在なのだ。
だから失いたくない。
こんなことで。
「……未来……そろそろ目を覚ましてくれないか?」
手に取っている宇都木の手の平を、如月はそっと撫でた。
宇都木が今、規則的に呼吸をしていることだけが、如月にとって希望だ。
「邦彦、会社から電話が入ってるらしいぞ。ここを出て廊下の真ん中に詰め所があるから、取ってこい。休むなら休むと一言、知らせておくのが常識だろう」
いきなり剣が入ってきて、如月に言った。
剣がいつ戻ってきて、今までどこにいたのか、如月は覚えがなかった。
「あ……ああ……はい」
すっかり会社のことを忘れていた如月は、そっと宇都木の手をベッドにおいて、椅子から立ち上がる。けれど、ここから僅かの時間であっても離れることに、躊躇いがあった。
「私が側にいてやるから、さっさと行ってこい。宇都木のことが気になるだろうが、仕事をいい加減にしていたことを後でこの男が知ったら、また自分の責任にするだろう?」
「ああ……はい」
如月はふらりとした足取りで歩き、剣と交替すると、廊下に出た。
こんな状態の時に仕事のことなど考えたくないが、確かに剣の言うとおりだ。これ以上宇都木に負担がかかるようなことは避けたい。
如月は通路の真ん中にある詰め所に行くと、名前を告げ、電話を回してもらった。
相手は香月だった。
「ああ。すまないな。連絡もせずにいて。二、三日、休みを申請しておいてくれ。急ぎの用件があってもお前がなんとかしろ。理由は聞くな。聞かれても答えられんからな。本当に悪いと思っている……」
それだけを言い、如月は香月が呼び止める間もなく電話を切った。
今は仕事のことなど何も考えられないのだ。
宇都木が目を覚ましてくれたら……それしか考えられない。
こんな状態の如月が仕事をすれば、さらに迷惑をかけることになるだろう。
如月は詰め所を後にして、また宇都木の病室に戻った。病室に入ると、剣だけではなく、真下も部屋にいた。
「東様も昼頃来られるそうだよ、邦彦」
真下は窓際に立ち、静かにそう言った。
けれど、如月にとって迷惑なことばかりだ。
如月は剣も真下の存在も邪魔で仕方がない。二人だけで、そっとしておいて欲しいのだ。彼らがどれほど宇都木を心配しているのか分かっている。けれど、如月にとって今、彼らは必要がなかった。
「お二人とも出て行って下さい」
如月は言った。
「……邦彦」
「お願いですから出て行って下さい。二人きりにして下さい」
唸るような声で言うと、何か口にしようとした剣の肩を真下が叩いた。
「そうだね。表にいるから、何か必要なことがあれば、いつでも言ってくれ」
真下は剣を引っ張るようにして部屋から出て行った。
ようやく静かな部屋に戻った病室に、如月はホッと安堵して、椅子に腰をかけ、また宇都木の手を握った。
相変わらず宇都木は眠っていた。
このまま眠るように死んでしまいそうな気すらする。
「未来、お前と早くうちに帰りたいよ。私はずっと一人であのマンションで暮らしてたんだぞ。もう限界だ……。分かるだろう?未来のいない生活がどれほど退屈で、寂しいものか……」
ギュッと両手で宇都木の手を握りしめ、如月は呟いた。
「未来……私を一人にする気か?ずっと側にいてくれると約束してくれただろう?それをお前も望んでくれたんだろう?だったら……目を覚ましてくれ……」
握りしめた宇都木の手に、如月の涙が落ちた。
耐え難いほどの痛みが身体や心を締め付けていて、息をすることすら苦痛だった。こんな宇都木を見る日がくるなんて、考えたこともない。なのに、現実は残酷だ。
「私の秘書はお前だけなんだ……未来。お前以外考えられないんだ。だから、早く元気になって……私を支えてくれ。お前の支えがなければ、私は何もできな……」
掴んでいた宇都木の手が少しだけ動いたような気がした。
慌てて如月が顔を上げると、宇都木はうっすらと目を開けて、ぼうっとした視線を天井に向けていた。
「未来……私が分かるか?」
背を屈め、宇都木に自分の顔を近づけた。