「障害回避」 第17章
翌週、如月は行動に出ることにした。
これ以上、部外者でありたくなかったのだ。真下が知っていて、恋人である如月が蚊帳の外におかれているという状況をどうにかしたかった。好奇心でもなんでもない、ただ、宇都木の恋人として力になってやりたい。
ただ、それだけだ。
「香月。三十分ほど出てくる。すぐに戻ってくるが何かあったらすぐに携帯に連絡をくれ」
午前中にメールを打っていたある男からの返信が来たため、如月はスーツの上着を羽織った。
「はい。分かりました」
香月は立ち上がって、答える。
声を掛けるといちいち立ち上がるのが毎回気になるのだが、如月がいくら『立ち上がらなくていいから……』と、話しても相変わらず香月の癖は抜けない。
「じゃあ、頼んだよ」
如月は足早に自室を後にすると、すぐさまエレベーターに乗り、一階まで降りた。そうして受付のあるロビーを抜けて、玄関の自動ドアを越え、車が来ないことを確認してビルの前にある道路を渡った。
「地下だったな……」
如月は自分の勤めるビルに対し、道路を挟んで真向かいにあるビルに如月は足を踏み入れた。約束をしていた男とは地下の喫茶店で会うことになっていたのだ。
「如月っ!」
予定していた喫茶店へ入ろうとした如月の背後から声は響いた。
「神崎……中に入って待っていたんじゃないのか?」
「ここはオフィス街だからな。……なんていうか、ちぃ~とばかし、僕は浮いちゃってさ。気恥ずかしいから出てきた。外に出ないか?」
よれたジャケットを羽織った神崎は、相変わらずどこか薄汚れたジーンズを穿いて、ニンマリと笑った。真っ黒な髪は手入れしていないのだろうが、サラリとしていて、イタズラっぽい笑顔によく似合っている。大学で同級生だった男だが、如月よりも年下に見える。
「外か……。いや、私から頼んで申し訳ないが、あまり時間が無いんだ」
「じゃあ、このビルの屋上に公園があっただろ。そっちに回らないか?如月もあんまり人に見られると不味いだろ」
やや猫背の身体をこちらに向けて神崎は手を人差し指を上に向ける。確かに会社から近いため、如月の知り合いに会う可能性があった。
「そうだな。そうするか」
ぱりっとしたサラリーマンと、どこか世間からはみ出したように見える神崎が一緒に歩いている姿は人目に付くのか、すれ違う営業のサラリーマン達がチラチラと視線を向けてくる。
「僕、目立ってるか?」
眉を山形にして、のほほんと神崎は言い、エレベーターの側面にある、屋上のボタンを押す。
「ここはオフィス街だからな。お前みたいな男がうろつくと目立つんだろう。今度からスーツで決めてきたらどうだ?」
神崎のスーツ姿など、ここしばらく見たことがないが、例えスーツを着ていても、この男の雰囲気は飄々としていてつかみ所がない。
「……う~ん……。スーツねえ……。必要なときは着ることもあるけど、窮屈なのは苦手だからなぁ……」
口をやや歪めて神崎は頭を掻いた。
「仕事は上手くいってるのか?」
「……聞いてくれよ~如月。僕はハードボイルドを目指していたはずなんだけどさ。いざ蓋を開けてみたら、浮気調査ばっかりだ~。世の中どこか狂ってる……」
泣き言のように口にしている神崎だが、口で言うほど本気で思っているわけではない。とはいえ、浮気調査は確かに神崎には似合わないだろう。
「はは……探偵業なんてものは、そんなものだろう。気に入らないなら古巣に戻ったらどうだ?」
「刑事はこりごり。僕はこれでも血を見るのが嫌いなんだよ。単に銃をぶっ放したかっただけなんだけどさ……」
ふうとため息をついて神崎は言う。
神崎はもともと、警視庁の刑事だった男だ。だが、誰かに使われるのが嫌いな性格が邪魔をして、結局数年で退職した。その後、探偵事務所を開設したと如月は聞いていた。
「……ハードボイルドを求める男が、血を嫌うなんてな。なんだか矛盾していると私は思うんだが……」
笑いを堪えるようにして如月が言うと同時にエレベーターの扉が開いた。
「耳が痛いね。……で、僕にたっての頼みってなんだ?」
小さな公園に出た二人は、ビルの建ち並ぶ景色が一番よく見える端に移動し、長いすに腰を下ろした。
「実は……私の恋人のことを少し調べて欲しいんだ。内密に……というのが条件だが。もちろん、規定以上の報酬は払うよ」
手を組み、如月はそう言った。
「お前まで浮気調査か?かんべんしてよ……。いや、如月の頼みなら別に構わないけどさ……」
う~んと唸りながら、神崎は頭を掻く。
「浮気調査じゃない。ちょっと込み入ってるんだ……」
どんなふうに話せば良いのか分からなかったが、如月は話せることは全て神崎に話して聞かせた。
「……東家が絡んでるのか?」
急に真剣な顔つきで、神崎は如月を覗き込んでくる。
「ああ。お前も知ってるだろう……あの、東グループだ」
「いくら僕でも知ってるよ。あそこはあんまり介入しない方が身のためなんだ。会社がらみのことはまだなんとかなるけど、東家の私設秘書には関わらない方がいいっていうのは業界で有名なんだぞ。もっとも、如月も東家の係累になってるんだろうけど……」
チラリと如月を見て、神崎は視線を逸らせた。
「……頼めないか?」
如月の言葉に神崎は、うーんと一つ伸びをすると立ち上がる。
「如月の今の恋人は東家の元私設秘書か……」
神崎は振り返り、柵に凭れた。
「まあな……」
「僕は戸浪のことかと思ったよ」
くすっと笑って、神崎はニンマリと笑う。
「あれは終わった話だ」
神崎は戸浪のことを知っている。いや、神崎には随分相談に乗ってもらった男であるから忘れていないのだ。もっとも、就職してから戸浪といろいろあった話は一切口にしていなかった。
「へえ。大人になったんだ……」
からかうように神崎は言った。
「ああ、そうだ。戸浪は今、東の孫に当たる三崎と付き合ってる」
「はあ?」
本当に驚いた顔で神崎は目を見開いている。当然と言えば当然だろう。
「そういうことだ」
「なんだか……爛れてんなあ……」
深いため息をついて、神崎は言った。
「……爛れているわけではないが……いろいろあった」
空を見上げて如月は目を細めた。
あれから随分経ったような気がする。毎日、一緒に宇都木と暮らしている日々が、あまりにも自然ですっかり戸浪とのことを忘れていたからだろう。
「そうか。ま、人様の恋愛には口を出さない主義だから、如月が誰と付き合っていても構わないよ」
「それで……調べてくれるのか?」
「やるだけやってみる。タブーと言われていることに挑戦するのも僕は好きなんだ。なんだかこう、わくわくしないか?」
真っ黒な瞳をキラキラと輝かせて、神崎は言った。
「遊びじゃないぞ」
「僕は仕事を遊びと思ったことはないよ。例え浮気調査でもね。もっとも、相手は東家だから少々手こずるかもしれないなあ……」
「私は……宇都木を守ってやりたいんだ。彼は何か隠していて、一人で苦しんでいる。それを……取り払ってやりたい」
如月が呟くように言うと、神崎は分かったように肩を叩いてきた。
「僕に任せておけよ……大丈夫だって」
カラリとした笑みを神崎から向けられ、如月は少しだけ気持ちが落ち着いた。だが……。
「なにせ、逃げ足だけは早いから……」
続けて口にした神崎の言葉に、如月は思わず肩を落としそうになった。
--同じ頃、宇都木は電話を掛けてきた謎の男に会うために、出かける準備を整えていた。