Angel Sugar

「障害回避」 第50章

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「ああ、夢じゃないぞ……未来」
 掴まれた手がさらにきつく握られる。その力強さは伝わってくるが、痛みは感じられない。それに、まだ意識が朦朧としていて、如月の顔はぼやけ、周囲の景色も歪んで見えた。
「何も心配することはないからな。ゆっくり身体を休めるといい。私はここにずっとついているから」
 如月は穏やかな、それでいて心に染みいるような声で、囁く。すると急に胸がいっぱいになって、宇都木の目に涙が浮かんだ。もう如月には会うつもりがなかった、いや、この世から自分を消してしまおうと思った。それに失敗したことに宇都木は何故か安堵しているのだ。
 薬を飲んでいたときは、死ぬことがいいことだと思った。
 如月の足枷になる自分が嫌で堪らなかったのだ。
 いつか自分の存在が、如月の出世の妨げになるのではないかと、恐れた。
 けれど、こうやって如月を目前にすると、どうして死のうと考えたのか、今では信じられないほど、彼に恋いこがれていることに気付く。
 触れている大きな手、見つめる青い瞳、抱きしめられたらいつまでもそこに身体を預けておきたいと思うほどの温かな抱擁。こんな状態になって、宇都木はそれらを捨てられないことにようやく気付いたのだ。
 私は……馬鹿ですね……。
 本当に……馬鹿。
 声に出せない言葉は、心の中で何度も繰り返され、自責の念に駆られる。それが涙となって頬を伝った。
「泣かなくてもいいんだよ……未来。私はなにも怒ってないし、お前を責めようと思っているわけでもない。ただ、目を覚ましてくれただけで……いいんだ……」
 頬に光る涙の粒を如月がそっと拭う。
「もう、大丈夫のようだな」
 如月の背後に立っている剣が安堵の声を発した。それに同意するように、真下が頷いている。みな宇都木を心配してここにいるのだ。ちいさい頃から何故か自分はいつも独りぼっちだという意識が強かった宇都木だが、こうやって見渡せば自分を案じて側にいてくれる人達がいた。
 いつも力づけ、協力してくれる人達がいて、手を伸ばしさえすれば助けてくれる。
 それなのに、宇都木は自分だけの殻にいつまでも閉じこもっていたような気がした。
 そう、恋人の如月にさえ。
 如月と真下が何かを話していたが、宇都木にはよく聞き取れなかった。けれど耳障りではなく、それらは心地よく耳に響いた。
 両親と会ったことを覚えている。
 あれは夢だったのか。
 それとも宇都木の希望のなせる技だったのか。
 どちらにしても、よかった。
 両親と会うことができた。そう思いたかった。あれでどれほど心が楽になったのか、分からないほどだ。
 
 生きている間に後悔をしなさい……。

 その言葉が胸にしっかりと刻まれている。
 今だから分かるのだ。
 生きている間なら、後悔したことから学び、良い方向へと向けられるだろう。けれど死んでしまえば、後悔はそのまま胸に刻まれ、永遠に救いが得られないような気がする。
 あの世がどういう世界かなど、宇都木には分からない。
 夢で見た場所がそうであるのかも、今では判断のつけようがない。
 けれど、亡くなったときの最悪な両親しか思い出せなかった宇都木だったが、優しかった頃の両親に出会うことができて、宇都木は記憶を塗り替えることができたのだ。
 生きていてよかった……。
 ぼんやりと如月の姿を眺めて、宇都木は心底そう思った。
 言いたいことがたくさんある。
 聞いて欲しいことがたくさんある。
 どうせなら、すべてを如月に晒してから、それが受け入れられなかった時に、また考えたらいいのだ。
 悩むかもしれない。
 また後悔するかも。
 それでも何もかも見てもらいたいと宇都木は強烈に思った。
「邦彦……さん……」
「……あ、どうした、未来?」
 真下と何か話していた如月がこちらを向く。
「話したいことが……たくさん……あるんです……」
 まともに会話をしたいのに、どれほど必死に絞り出しても掠れてしまう。それでも宇都木はやめなかった。けれど紡がれる言葉はすべて、情けないほど聞き取りにくいもので、まともな言葉にはならない。
「分かった。お前が元気になって、身体が起こせるようになったらゆっくり話そう。今は身体を休めるんだよ……未来」
 そっと額を撫でられて、宇都木は口を閉ざした。
 迫り上がってくるたくさんの言葉が、喉でとまる。
 確かに如月の言うように、今はとてもまともに話すことはできないだろう。だから、もう少し快復してからにすればいいのだ。
 今、生きている。
 時間はたっぷりあるのだ。
 額を撫でられながら、宇都木は心地よい眠りに落ちた。



 その日は天候もよく、空が晴れ渡っていた。空には白い絵の具がポツポツと落とされたような雲が散り、流れていく風も穏やかだった。
 入院から一週間もすれば、宇都木は歩けるまでに快復して、あと数日で退院できるところまできた。宇都木は如月を誘って屋上に向かうと、白いシーツがはためくのを眺めながら椅子に腰をかけた。
 如月の手は宇都木の手に被さっていて、温もりを確かめるように動かされている。宇都木は心地よい気候に身を任せながら、自分の生い立ちを如月に話した。
 如月はじっと耳を傾け、宇都木が話し終えるまで口を開かなかった。
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