Angel Sugar

「障害回避」 第6章

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「申し訳ありません……」
 宇都木にはこう答えるしかなかった。
「未来は私の秘書だろう?なのにどうして、私の思い通りにならないんだ?今更なぜ東家を引き合いに出して、お前を奪われなくてはならない?」
 抱きしめられていた身体が離されて、如月は宇都木の方をじっと見据えている。如月は腹立たしい気持ちと、どこかやりきれなさが混じった微妙な表情をしていた。
「暫くの間だけです。過去、私が担当した仕事に問題が出ているので、真下さんも仕方なしにおっしゃられたことでした。これは私のミスですし、他の方には分からない内容なんです。ですから、私がなんとかしなければ……。お願いですから、分かってください」
 如月に嘘を付くのは心苦しかった。だが、どうしてもつかなければならない嘘だ。ここで躊躇うような仕草をして、不審に思われたら全てが水の泡だった。どれほど胸が苦しくて、申し訳ない気持ちに駆られても、本当のことは話せないのだから仕方ない。
「どうして断らなかったんだ?私の仕事にとっても未来は欠かせない存在だぞ。それなのに、いきなり明日からはうちに来てもらうなどと言われなくてはならないんだ。こっちも遊びで仕事をしているわけじゃない。特に今は大きなプロジェクトを抱えているんだ。お前にも重要なことを私は頼んでいるんだぞ。そうだろう?それとも、お前に頼んでいる私の仕事より、真下さんのところでの仕事の方が重いと言うのか?」
 厳しい口調を投げかけられて、宇都木は如月から視線を外した。嘘を付いているという後ろめたさと、答えられない問いかけに自分でもどうしていいのか、分からないのだ。
「どうなんだ。未来……」
 肩を揺すられて、宇都木は言葉に詰まった。よくよく考えると、自分が今持っている仕事をいきなり放棄したことになるのだ。真下と話しているときにはその重要さまで頭が回らなかったが、普通の社員であってもこんなことは許されないだろう。
 ましてや、宇都木は如月の秘書だ。スケジュール管理から、資料の作成。根回しまでやっていた。宇都木にしか分からないことも多いに違いない。それらすべて、誰に対しても引き継ぎをせず、家にこもろうとしているのだから、如月が納得するわけなどないのだ。
「……私は……っ……」
 一瞬、自分の置かれている立場を話してしまおうかと思った宇都木だったが、どうにかその欲求を抑えた。秘書の立場を失ってしまっても、如月を失いたくないのだ。もし、話してしまったら、全てを失うことになりかねない。
「……なんだ?他に私が納得できるような事情があるのだとしたら話してくれ……」
 やや、声を和らげた如月だったが、相変わらず納得できないという苛立ちは身体から立ちのぼっていた。
「……いいえ。事情は真下さんが話したとおりです。それ以外にはありません」
 苦しかった。
 嘘を付くたびに、身体が絞られるような痛みを感じる。
 それでも耐えなければならないのだ。
 それが最終的に、如月を守ることになる。
「未来……っ……」
 ギュッときつく抱きしめられて、息が詰まりそうになった。触れる身体から感じる温もりは確かに宇都木のものだった。秘書という立場が二度と与えられることがなかったとしても、これだけは失いたくない。
 如月という恋人も。
 一緒に暮らしているこの場所も。
 絶対に失いたくないのだ。
「少しの間だけです……。私は自宅で真下さんからの仕事を受けますので、何かあったらすぐに連絡してください。いいえ。まず、代理の秘書を一人邦彦さんはつけなければならないでしょう。その方をすぐに選んでくだされば、電話で引継をいたします。ただ……いまのところ会社の方へは顔を出すことはできません」
「お前の言っていることはとてもつじつまが合わないことばかりだ。自宅でどう仕事をするんだ?なぜ電話で引継をしなければならない?それこそ、真下さんからの仕事を会社に持ち込めばいいだろう。そのくらいの時間なら私もお前に与えてやれる」
 如月の提案はありがたいのだが、宇都木は社員としての痕跡を一つ残らず抹消されるはずだった。そんな宇都木が会社に出向くことなど許されない。このことは真下もまだ如月に話していないようだった。
「例え邦彦さんであっても見せられない書類を私は扱います。本来なら、東家に戻らなければならなかったのですが、そこまでは私も出来ません。秘書という仕事をしばらく休むことになっても、私はどうしても邦彦さんの側から離れたくなかったから……」
 顔を上げてじっと如月の青い瞳を見つめた。宇都木の今告げた言葉が本当の事であるのか考えているような表情だ。嘘だと思われたか、それとも本当のことだと判断したのか、青い瞳には浮かばない。ただ、じっと見下ろしている瞳は思案気な様子だった。
「……私には、重大なことをお前が隠しているような気がしてならない」
「いいえ……私は貴方に嘘などつきません」
 後で嘘だとばれたときに、どんな言葉が如月の口から出るのだろう。それは恐ろしくて宇都木は考えたくなかった。
「……そうか。分かった。東家が決定したことなのだから、私がなにを言おうと取り合って貰えないことはよく分かっていたんだ。お前に言っても仕方のないことだったな。責めるようないい方をして悪かった。未来は私と東家に挟まれて一番辛い立場だったことをようやく思い出したよ……」
 やや落ち着いた様子で如月は穏やかに言った。まだ納得していないのはありありと窺えたが、宇都木は追求しなかった。
「……ありがとうございます」
 どこか棒読みの口調になっているような気が宇都木にはしたが、どうやってこれを本当の言葉にできるのかもう、分からない。嘘を付いて、言葉を取り繕い、誤魔化せそうになくなったらまた新たな嘘を付かなくてはならないのだろうか。それを考えると途方もない作業に思えて仕方ないのだ。かといって、本当のことなど口が裂けても話せない。
「いや……。いいんだ……」
 諦めたような声で、如月は言うと、宇都木の肩を掴んでいた手を離す。急に失われた温もりに不安を感じて思わず声を上げた。
「邦彦さん……私のこと呆れてしまわれましたか?もう……もう、私のような奴は側に置きたくないって……私……」
 自ら如月の手を掴み、宇都木は去ろうとしている如月を引き留めた。このまま如月の心まで離れていってしまいそうな気がしたのだ。
「未来……違うよ」
 ようやく如月は強張っていた表情に笑みを浮かべた。優しい、宇都木にだけ向ける笑みだ。
「でも……」
 ギュッと噛みしめた唇が震えているのが自分でも分かる。身体まで震えてしまいそうなほど怖かった。如月の心が離れてしまったら、宇都木はそれこそ生きていけないだろう。
「お前の立場は分かっているつもりだ。なのに、未来に話してもどうしようもないことを言ってしまった。これこそ、真下さんに言うべきことだったんだ。いや……同じことをもう話したがね……」
 一旦は離した宇都木の身体を再度引き寄せて、如月は安心させるような穏やかな口調で言った。それでも一度感じた不安は拭えず、宇都木は自らも手を回して如月にしがみつくように身体を寄せた。
「……ああ。もしかして不安にさせてしまったのか……。お前の気持ちを考えずに私はいつでも未来を傷つけるようなことばかり口にしているな。言ってしまってから反省しているんだが……。私は、ただ、未来を失いたくないだけなんだ。いつかまた、本当に、東家に未来を奪われそうな気がしていたから、今回のことに動揺した。お前がそう言ってくれるのなら、大丈夫だろう……」
 如月は宇都木の頭を緩やかに撫でさする。宥めるように動かされる手は宇都木の不安を少しだけ拭ってくれた。



 翌日から宇都木は如月を見送る立場になった。誰もいないうちで如月を待つのは苦痛だが、暫くの間は我慢しなければならないだろう。とはいえ、待っている真下から連絡も入らず、宇都木は掃除をしたり、洗濯をしたものの、普段からこまめにしていることもあってそれほど時間を潰せるものにはならなかった。
 昼前には全て終え、次になにをしていいのか分からず、ぼんやりとテレビを見ていた。そこに、電話が鳴り、慌てて受話器を上げると如月からだった。
『ああ、私だよ。秘書がいないと私も困るから、香月という男を臨時で入れることにした。お前も知っているな?自宅に連絡を入れられては困るから、未来の携帯の方へかけるように話してある。そうだな……あと少しすれば連絡が入ると思う。引継を簡単にしてやってくれ』
 如月はそれだけを矢継ぎ早に言うと電話を終えた。多分、忙しいに違いない。
 香月……香月湊。
 先月、ニューヨーク支社から転勤してきた男だった。如月に心酔していて、彼の下で働きたいが為にずっと転勤依頼を出していたと聞いている。そういったこともあり、宇都木は香月のことをあまり快く思っていなかったことを思い出し、気が重くなった。 
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