「障害回避」 第42章
私のしてしまったことを彼は知らない……。
黙り込んでしまった剣から視線を逸らせて、宇都木は心の中だけでため息をついた。もしあんなことをしでかさなかったら、もう少し落ち着いて物事を考えられたのかもしれない。ただ、あのときはあれが最善だと思ったのだ。
けれど今だから思える。
桜庭を訪ねていかなければよかったと。
遅い後悔だ。
しかもこのことは一番知られたくない如月に知られている。
株価はみるみる下がってきた。そろそろストップがかかるはずだ。桜庭の総帥は今ごろ何を考えているのだろうか。多分、東と今ごろ話し合っているはず。だから真下が呼ばれた。
こういう結果になるのなら、自分が動く必要などなかったのではないか……そんな後悔までしていた。
「宇都木、内線だ」
「え?」
「内線が鳴っている。どうせお前だろう?」
剣はパソコンの画面を見たまま、テーブルの上でなっている内線電話を指さしていた。
「はい」
宇都木は受話器を上げて耳に当てた。
『宇都木、私だ。桜庭の総裁から詫びが入っているがどうする?手を緩めるか?それとも徹底的にやるか、宇都木が決めなさい。東様がそうおっしゃっている』
真下からだった。
「私は……」
『ただし、こちらが手を引いても、邦彦の方は緩めるつもりはないだろう。宇都木から邦彦へ連絡して、向こうも手を引くように伝えてもらわなければならない。できるか?』
宇都木は桜庭を二度と見たくない。
そうするには抹殺するしかないのだが、もちろん現実にはそれは許されないことだ。あの男が二度と如月に手を出さないと誓えるのなら、手を引いてもいいのだろう。だが、総帥が約束してくれたといっても、当のあの男が納得するのか。
「……真下さんはどう思われますか?」
『徹底的に潰した方がいい場合と、途中で手を引いた方がいい場合がある。ただし、どちらとも恨まれることは覚悟しておいた方がいいね』
「……私情を言ってしまうと……徹底的に潰して欲しいです。ですが、あの男の性格を考えると、ここで手を引いた方が、いいのではないかと思われます」
宇都木は言いたくもない言葉を口にしていた。
『それはどうしてだい?』
「失うものがなくなれば、今度何をしでかすか分からないからです。ここであの男に恩を売って、今のままの地位に置き、総裁の監視下に置いてもらった方が私は安心ができます」
宇都木は自分でも気付かないうちに涙が溢れた。
悔しいのか悲しいのか、それ以外なのかもう宇都木には自分でも涙の説明をできない。
『同じ意見だね。ではそのように東様に伝えるよ』
「はい」
『宇都木にとっても辛い決断だろうが……桜庭も充分、痛手を被っている。彼もまた社員を路頭に迷わせるわけにはいかない。今ごろそれをよく理解しているはずだよ。私情丸出しで喧嘩を売るほど、彼も馬鹿ではないだろう。それに、これからは総裁が監視をすると確約して下さった。これで目立った嫌がらせもなくなるだろう。彼はアメリカに呼び戻されるだろうから、今後、日本で目にすることはない。まあ、休暇で日本に戻ることまでは制限できないだろうがね』
真下は淡々と、それでいて穏やかな口調でそう言った。
「そう望みます……」
『では、東様に伝えるよ。邦彦にも電話をしてくれないか。いいね?』
「はい」
宇都木が内線を終えると、剣が無言でハンカチを差し出してきた。それを宇都木は感謝しながら受け取ると、押さえても止まらない涙を堰き止めるように、目頭にぎゅっと押しつけた。
如月が役員会議に出ている最中、携帯が鳴った。液晶画面を確認すると、桜庭からだった。株価の件で慌てて連絡をしてきたのだろうか。それともまた新たな宣戦布告でもするつもりなのだろうか。
「少々、失礼します」
如月は椅子から腰を上げ、他の役員に軽く会釈をして会議室から廊下へと出ると、携帯を取った。
「何か用か?」
『私の状態を知っていて、それか?』
「何の話をお前が言っているのか私には見当がつかないな。朝からずっと会議でね。それもこれも私がまとめてあった話をお前が潰そうとしたことが原因だ。お前に構っている暇はない」
アミューズメントパークの件は、桜庭の介入でしばらく足並みが乱れたものの、ようやく一つにまとまったところだ。桜庭がこれから何をしようと、もう、何の心配もない。だから、余裕を持って如月は桜庭と話すことができる。
『……株価操作をしただろう?』
「知らないな。物好きな仕手集団が暴れているんじゃないのか?お前はあちこちでいらぬ敵を作っていたようだからな」
『……まあいいさ。今回は手を引く。だが、忘れないで欲しいね。私はまた戻ってくる』
こういう男は一度は引いても、体勢を整えてまた舞い戻ってくる。そういう男だ。今までもそうだった。ただ、今回は爆弾が大きすぎただけだ。
「捨てぜりふに力がないな」
如月は鼻で笑った。
『お前のせいで私はっ!……』
「なんだ?爺さんに灸でも据えられたか?」
『……いや、いい。いずれ見ていろ。今度は逃さない』
携帯越しであっても桜庭の腸が煮えたぎっている様子がよく分かる。如月は楽しくて仕方がない。
「アメリカに戻るのは何時だ?」
『……それをお前に言う必要がどこにある?それとも見送りにでも来てくれるつもりか?』
桜庭は投げやりな口調でそう言った。
「ああ……お前がこの日本から出て行く前に、一度会いたいと思っていたんだ」
『……敗者を目の前で見て楽しむ趣味があったのか?』
「いや。ただ、会いたいだけだ。成田に何時に行けばいい?」
『明日の夜七時だ』
「分かった。じゃあな」
とどめを刺す機会が得られた如月は、思わず口元に微笑を浮かべていた。