「障害回避」 第34章
意外に飲み込みが早いのかもしれない……。
宇都木は真下が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、パソコンから目を逸らせて窓の外に見える庭を眺めていた。
今日は何度か香月に連絡を取ったが、一度目より二度目、二度目より三度目と彼の口調からも自信が伝わってきていたのだ。その様子から随分、如月には放置されていたのだろう。だが、今はやるべきことを理解して、生き生きと仕事をしているに違いなかった。
今ごろ邦彦さんは何をしているのでしょう……。
宇都木は如月が働いている姿をこっそり窺うのが楽しみだった。あの端正な顔が真剣な表情で仕事をこなす姿を見ると、宇都木は何度も胸がときめいた。もっとも、終始にやけている訳にはいかないため、仮面を被り感情が表に出ないよう表情を抑え、いつだってクールな顔つきでいたが。
青い瞳が宇都木を気遣うような視線を時折向けてくると、それを気配で気付いても宇都木は知らぬ顔を決め込んでいた。きっと目が合うと顔が赤くなっていただろうから。
「……あ」
窓の外で恵太郎が唇に指先をあて、もう片方の手を振っているのが突然視界に入ってきた。用事があるのなら真下のいるこの部屋にやってくるのだろうが、外から手を振ると言うことは真下に知られたくないのだろう。
宇都木が恵太郎の様子に気付いたことを知ったのか、恵太郎は窓から姿を消した。きっと今頃窓下に座り込んでいるに違いない。
――宇都木が出てくるのを恵太郎は庭で待っているのだろうか?
恵太郎の行動が理解できないものの、今は取り立てて用事のない宇都木だ。庭に出ることくらい許してもらえるだろう。
チラリと真下の様子を窺うと、堆く積まれた書類を一枚ずつ確認してはサインをしている。時折、電話の受話器を上げて指示を出していた。その電話を終えた一瞬を狙い、宇都木は真下に声をかけた。
「すみません。ちょっと庭を散歩してきてもいいですか?」
「ん?ああ、構わないよ。昼からずっとここに宇都木はいたからね。気晴らしに歩いてくるといい。ただ、敷地からは出られないよ。いいね。これに関しては、宇都木がどれほど頼み込んでも無駄だよ。門のところにいる警備員にも徹底してある。分かっているね?」
真下は穏やかに、笑顔でそう言ったが、有無を言わせない口調だった。
「ええ、もちろん。屋敷から出たいと思っていませんから、逃げだそうとしているわけじゃないんです。ただ、少しだけ外の空気が吸いたくて……」
「もし、気が向いたら、離れの洋館に脚を向けて、自分の部屋にいってみるといい。ああ、よかったら鳩谷君の宿題を見てやってくれ。私が言いつけた問題集を目の前にして、今ごろ泣いているかもしれないからね」
真下は笑いを堪えるような表情になった。
だが、真下から言いつけられた問題集をほったらかして、今、恵太郎は庭でぶらぶらしていることを知らないのだ。いつまで経っても恵太郎は勉強が好きになれないのだろう。
「ええ。行ってきます」
宇都木は微笑しつつ部屋から出ると、すぐに裏口に回って庭の方へと向かった。すると恵太郎は亀を手に持ったまま、窓下に座り込んでいた。ここで声をかけると部屋で仕事をしている真下に気付かれるだろう。
宇都木は小さな小石を掴んで、恵太郎の足元に転がした。
「あ……」
恵太郎はすぐさま宇都木に気付き、中腰で走ってきた。
「お勉強をさぼって、ここで何をしているんですか?」
「え……あ……その。もう、身体は大丈夫ですか?」
恵太郎は居心地悪そうに手に持った亀の方ばかり見つめてそう言った。
「ええ……大丈夫です。今朝はすみませんでした。恵太郎さんには大人げないことを口にしてしまいましたね……」
すまなさそうに宇都木が言うと、恵太郎はパッと顔を上げて、頭を左右に振った。その仕草がとても可愛らしくて、宇都木は思わず頭を撫でてやりたくなった。
「あっ、あの。僕がここに来たのは、宇都木さんにこっそり伝えてほしいっていわれて……じゃなくて、呼んできて欲しいって言われたから……」
「え?」
「僕、裏で勉強をさぼっていたら、フェンスの向こうから呼ばれて……。用事があるなら玄関からどうぞって言ったんですけど、表からは入られない事情があるって……。もしかして真下さんと喧嘩でもしてるんですか?って聞いたら笑ってました」
「それはどなたですか?」
「あっ!そうですよね。如月さんです。裏のフェンスのところで……」
宇都木は恵太郎の言葉を最後まで聞かず、屋敷の裏へと走った。裏には小さな公園と人工池があるが、周囲には木々が植えられていて、屋敷を囲っている。その外周には檻のようなフェンスが張られ、ぐるりと敷地内を囲っていた。
どこにいるのだろうか……。
フェンスが木々の間から見えるのだが、人影は見あたらない。宇都木は何度も目を彷徨わせて如月の姿を見つけようとした。
「未来っ!」
声のする方へ顔を向けると、如月が立っているのが見えた。その姿は夕日に照らされて赤い色をスーツに反射させている。
「邦彦さん……」
如月の名前を聞き、ただ嬉しいばかりの気持ちでここへやってきたが、自ら犯した行動を思い出して近寄ることができなかった。そんな宇都木の様子に、如月は首を傾げている。
「側に来てくれないのか?」
視線を逸らしがちの宇都木に、如月は何事もなかったような声で言う。
「……」
「近くを通ったから、寄ってみたんだ。そうしたら、あの恵太郎くんがブツブツ言いながら池に石を投げているのを見つけてね。彼と話しているうちに、未来に会いたくなった」
恵太郎と話すと誰もがそういう顔になるのか、如月も笑いを堪えるような表情をしていた。
「邦彦さん……」
「未来、ほら、側に来てくれ。ここから連れ出そうとは思ってないから」
如月の言葉に宇都木は恐る恐る近づいた。桜庭とのことを責められるかもしれない……そう心の中で怯えつつも、全てを受け止める気だった。
「……え、ええ」
そろそろと如月に近づくと、もう随分長い間会っていない親しい友人に会ったときのような感動が宇都木の中に溢れた。精悍な顔立ちに、印象深い青い瞳。全てが自分のものだと言えたのはいつまでのことだったのだろう。
「顔色がよくなった」
如月は目の前に立つ宇都木の姿を見てホッとしたように呟く。
「……はい」
視線を逸らしがちだったが、見ると吸い込まれそうなほど青い瞳が嬉しそうな輝きを浮かべているのが分かり、宇都木は思わず魅入っていた。
「……っあ」
如月の瞳に引き寄せられるように近づきすぎた宇都木は、気が付くと如月に引き寄せられていた。