Angel Sugar

「障害回避」 第31章

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 昨晩、神崎とも打ち合わせをして如月は出社した。神崎に頼んだこと。それは桜庭の任された企業の資産状況と、協力業者だ。正攻法では崩せないのは分かっていた。だから周囲を取り囲む人間の弱みを手に入れろと半ば命令に近い頼みを神崎にした。
 もともとそういう弱みを見つけるのを得意とする神崎だ。なんとか探してくれるだろう。方法は如月も問いかけはしないが。
 如月は桜庭グループの喧嘩を売る気はなかった。だが、桜庭竜司だけは許せそうにない。相手が弱みにつけ込んでくるのなら、こちらも弱みを握るしかない。それには本人からではなく、周囲を細かく砕いていくのが有効だ。あの男が任された会社など、できたばかりで力もコネも本体頼りにちがいない。規模が小さいのなら潰しやすいともいえる。
 大企業の子会社が問題を起こした場合、例え孫である竜司の失態だったとしても、利益が優先する社会だ。無能のレッテルを貼られて、子会社などさっさと潰されてしまうだろう。
 私を見くびるなよ……。
 如月は奇妙なほど身体が高ぶっていた。冷静さを保つのが苦しいほど、桜庭のしたことに対し、怒りを抱いているからだろう。あの男がどういう事情で如月を苦しめたいと考えているのか、そんなことは知りたくもない。だが、あれほど大切にしていた宇都木に手を出したことが許せないのだ。
「おはよう、香月」
 オフィスの扉を開けると、青い顔で待っていた香月に如月は言った。
「昨日は……どうなさったんですか?会議は出ていらっしゃらなかったようですし、携帯の電源も切られていましたし……」
 言葉を途切れさせながら、苦いクスリを飲み、困惑したような表情で如月の後を追っかけてきた。
「ああ、緊急に処理しなければならない問題が出たんだ。今度入札を控えているアミューズメントパークのことでな。これがくだらない会議よりも私にとって最優先だろう。まだ文句を言ってくる奴がいれば、そう言ってやれ」
 椅子に腰をかけ、受話器を上げながら如月は言った。
「問題……ですか?なんでしょう」
 書類を持ったまま、恐る恐る香月は問いかけてくる。
「桜庭グループの孫が参入してきたらしい。桜庭はもともと日本にあった企業だが、現在は外資系として認識されている。だからこちらの交渉テーブルにはのってこないぞ。しかも悪いことにアミューズメントパークはアメリカの企業だ。どちらが立場的に強くなるか考えなくても分かるだろう。ああ、この話はあとだ……」
 今かけていた電話が繋がり、如月は香月との会話を一旦終える。
「如月邦彦です。兄の秀幸をお願いします」
 ニューヨーク支社にいるであろう秀幸の秘書に如月はそう告げた。
『暫くお待ち下さい』
 音楽が流れ、数分待っていると兄の秀幸が出た。
『久しぶりだな。元気にやっているのか?』
「兄さんはどうです?」
『ああ、今から会議に出るところだ。そっちは……ちょうど出勤時間だろうがね』
 笑いながら秀幸は言う。機嫌がいいところを見ると、仕事が順調なのだ。こういうときに頼み事ができると如月の方もありがたい。兄の秀幸はトラブルが起こると、とたんに機嫌が悪くなるのだ。
「兄さんの知り合いで……といっても信用のおける、腕のいい人物で、証券アナリストとディーラーを紹介してもらえませんか?仕掛けたい相手がいるんですよ」
『株で痛い目にでもあったか?』
 驚いた声で秀幸は聞く。
「いえ、桜庭グループの孫がこちらに来ていることをご存じですか?」
『……あ、そういえば、そんな話をつい先日小耳に挟んだよ。なんだ、絡まれているのか?』
 どこか皮肉ったような声で秀幸は言う。
「面倒なことに、絡まれています。しかも私が狙っている物件に手を出そうとしているので、少々痛い目に遭ってもらって、この日本から追い出したいんですよ」
『なるほど。だからアナリストとディーラーか。だが、公になると手錠がかけられることになるぞ。いいのか?』
 サラリと秀幸はそう言って、笑う。
「ですから、信用のおける、腕のいい人物を紹介して欲しいんですよ。今更兄さんがそんなことを言うなんて、その方が私は信じられませんね」
『最初に言っておくが、彼らにはそれなりの見返りが必要だぞ。用意できるのか?あいつらは金じゃ動かない。毎日金の計算をしているらしいから、そういうものは見たくないそうだ』
「私で用意できるものなら、どういうものでも必ず用意させていただきます。そのことで兄さんにご迷惑をかけることはいっさいありませんのでご心配なく」
 命が欲しいと言われても、如月は喜んで差し出すだろう。
 桜庭とは刺し違えたとしても息の根を止めることができるのなら、いい。
『分かった。これからすぐに連絡を取って、そちらのアドレスへ連絡するように伝えておくよ。ああ、時には市場を荒らすことも彼らはやってのけるから、住所や身分を絶対に明かさない。連絡の方法はメールのみだ。だが、信頼できる相手だから安心しろ。ただ、お前が変に突っ込んで聞くんじゃないぞ』
 秀幸は如月の声に驚いたように、今度は宥めるような言い方をする。
「ええ……分かってます」
『何かあったらすぐに連絡をくれるといい。私が掴まらなかったら秘書でも、舞にでも言付けておいてくれ』
「ありがとう、兄さん」
 如月は張りつめた中にも温かいものを少しだけ感じることができた。
 電話を終えると、先程から落ち着きをなくした香月が、自分の席からこちらの様子を窺っている。
「どうした?」
「何をされようとしているのでしょう?」
「こういうとき、秘書は黙って上司の命令に従うものだろう?」
「え、ええ、ええ、はい。もちろんです。私は何をお手伝いすればよいろしいのでしょう?」
 香月はまたデスクの書類を落としながら言った。動揺すると、手が勝手に動くのだろう。そんな香月を眺めながら、如月はため息をついた。
「とりあえず、そうだな、菊の花でも届けてもらおうか」
 ニヤリと笑って如月が言うと、香月は目を丸くさせる。
「菊の花……ですか。どなたかお亡くなりになられましたか?」
「桜庭竜司宛だ。白で、本数は……そうだな、四十四本」
「不吉じゃありませんか?」
 首を傾げて不思議そうな表情を見せる香月に、如月は苦笑するしかなかった。



 宇都木は真下が去った後、一眠りをすることができた。飲まされているクスリのせいだろう。だが、頭は眠ることができないのか、何時間眠っても、睡魔が完全に取れない。眠っているのか、起きているのか、自分でも分からないほど、視界に入る世界が霞んでみてた。
 真下の部屋に連れてこられた理由を宇都木は分かっていた。ここだと、外に出るためには必ず真下の仕事場を通り抜けなければならない。他に出口はなく、窓は二重のロックがかけられていて、宇都木はその解除の仕方を知らなかった。
 これは宇都木が逃げられないようにしているわけではなく、防犯からもともとあったものだ。とはいえ、宇都木が逃げられないという事実は変わらない。
 今頃、如月は何を考えているのだろうか。
 確かめるのも怖く、もちろん電話をするつもりもなかった。許して欲しいとは思わない。責められた方が楽だろう。
 以前の如月だったらもっと感情的になっていたはずだ。なのに、宇都木と暮らし始めた如月は、いつも何かを抑えているような気がしてならならない。それ自体、宇都木がもどかしく思うことだった。
 怒鳴られたいと考えているわけではない。
 ただ、本来の如月の性格ではないような気がして、宇都木は心苦しく思っていたのだ。
 想いが通じて嬉しかったはずなのに、何故かとても苦しい。
 如月を恋しく焦がれるほど、宇都木の心は何かで縛られていくような気がする。
 愛し方が分からない。
 愛され方も分からない。
 宇都木自身、人間として大切なものが欠けているのかもしれない。
 ――だが、いまここで悩んでいる場合ではなかった。桜庭が今度どういった行動に出るのか分からないのだ。なんとかしてあの男を如月の目の届かないところへ追いやってしまいたい。
 宇都木は窓から見える景色をじっと見つめながら、ただ、それだけを思った。
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