「障害回避」 第23章
「おっと……」
頬を打つ前に手首が桜庭に掴まれ、何事もなかったような表情を向ける男に、宇都木はきつい視線を送った。
「離してください」
「謝ってもくれないのかい?今、君は私をひっぱたこうとしたんだよ。違うかな」
そう言って、クスリと笑う桜庭に宇都木は虫酸が走りそうだ。掴まれているところから伝わる感触も、汗ばんでいるようで気持ちが悪い。
「失礼なことをおっしゃったのはそちらでしょう」
掴まれた手を振りほどこうとするのに、桜庭の手は相変わらず宇都木の手首を拘束していた。
「失礼か?そう聞こえたなら私の方が謝らなければならないだろうね。私がこれほどまで手に入れたいと思うのは、それほど君が優れているからだ。賞賛と受け取ってほしいよ」
いかにも誠実さをアピールするように、真面目な面もちで桜庭は言うのだが、本心の見えない表情は、宇都木を不安にさせる。
「……何を企んでいらっしゃるんです?」
「君を秘書として雇いたいと言ったら、頷いてくれるか?」
いきなりの言葉に宇都木は目を見開いた。
「は?私が……貴方の?」
「そう。公私の『私』の方はあとからでいい。どうせ君は今、如月に切られて暇にしているんだろう?仕事をせずに自宅に籠もって腐っているより、私の仕事を手伝ってくれる方が有意義だ。違うかな」
穏やかな口調であるが、どこか棘のある桜庭の言葉だった。
「……暇をもてあましているわけではありません。これでもいろいろと忙しくしているんです。誰かさんのおかげでひどい目に遭っていますし……」
向けられている視線を全て受け止めて、宇都木は言った。
「事実が出てきただけだろう。もっとも過去のことだろうが。私が掘り起こしたんじゃない。君が忠誠を誓っている『東家』がしでかしたことだろう。恨むなら私ではなくて、東家のほうにしてくれないか」
宇都木を追いつめたのはあのことだけではない。桜庭が裏でこそこそと画策していたことこそ、一番、堪えているのだ。東家は宇都木を守ろうと手を尽くしてくれているのに、表沙汰にしようとしているのは他ならぬ桜庭だろう。いや、それをネタにして宇都木を動けなくさせている。
「実は、浦安のアミューズメントの物件を取ろうと私も動き回っているんだ。そういう男の側で仕事をしていた方が、君にとっても何かと都合がいいんじゃないのか?」
その桜庭の言葉に宇都木は思わず腰が浮いた。
一体、どうして桜庭がアミューズメントパークの件に絡んでいるのか、宇都木は全く知らなかったのだ。
競合業者にも桜庭の影は見えなかったはず。
「どういうことですか?桜庭さんには関係のない物件でしょう」
「上の命令だよ。私が望んだんじゃない」
未だに掴んでいる宇都木の手を両手で撫でつつ、桜庭はやや不満げな顔つきをしていた。だが、それが本心からのものでないことを宇都木は気がついている。桜庭は困惑する宇都木を見て楽しくて仕方がないのだ。それを分からせないように取り繕っているだけ。
「嘘です。貴方は彼が関わっているから、横取りしたいだけなのでしょう?いえ、単にひっかきまわしにきただけですか?どうしてそんな、くだらないことに力を注がれるんです?」
「ああ、そうそう。如月にも会ってきたよ。もちろん、アミューズメントパークについて話してきたよ。どうせ談合が成立しているだろうが、外資である私のところは抱き込めないぞ」
意味ありげな目つきを宇都木に見せて、ニヤリと桜庭は笑う。
「そんなことは、いたしません。どうあがいたところで今からでは遅すぎます。だいたい、数日で根回しできることではないんですよ。それこそ、貴方が大きな失敗をしでかしてしまうことになるのではないのですか?」
「日本に来る前に、私がどういう根回しをしてきたか……ということは知らないだろう?私も馬鹿じゃない。君の目に留まらないように、こっそり動いていたからね」
どこか酷薄な笑みを口元に浮かべて桜庭は機嫌良さそうに言った。
「……それほど、彼が気に入らないんですか?」
桜庭が如月に絡む本当の理由がなにかあるのだろうか。
宇都木が知っているような理由だけでは、説明がつかない。
「良く誤解されるが、私はこれでも如月の腕をかっているよ。もっとも、私に対する如月の評価は低いようだが」
肩を竦めて、桜庭は苦笑する。
「それで、私の申し出を受けてくれるのかい?もちろん、うちの動きを如月にリークしてくれても一向に構わない。どうする?」
覗き込むような瞳を向けて、桜庭は問いかけてくる。
「……ふざけたことをおっしゃらないでください」
「ふざけてない」
掴んでいた宇都木の手を桜庭が己の口元に引き寄せようとしたので、思わず手を振りほどいた。
「……お話はそれだけですね。もう、失礼させてもらいます」
何を聞かされても、宇都木には理解の出来ないことばかりだ。これ以上、桜庭と話をする気になれない。
「変だな……。東家の秘書は企業のスパイもやっていると聞いているが、如月の秘書になるまえは、君もやっていたんだろう?」
桜庭は背を向けた宇都木を追いかけることなく、背後から声を掛けてくる。それを無視するように歩き出そうとすると、言葉を続けた。
「せっかくいろいろと、君が理由をつけられるように提案してやっていたんだが。そういう態度に出るなら仕方ない」
桜庭が何を口にしようとしているのか、予想はついていた。
……。
震える拳をギュッと握りしめ、宇都木はようやく平静を保つと、一度背を向けた桜庭を振り返った。すると桜庭はゆっくりと椅子から腰を上げて立ち上がり、宇都木の方へ手を伸ばす。
まるで、自分から掴めとでも言うように。
「……」
この手を取ったら引き返せない。
宇都木には桜庭が一体何を考えているのかは分からなかった。それでも、この手を取れば、自分がどうなるのかを理解していた。理性は駄目だと宇都木に訴えている。だが、拒否をしたところで、結果は同じだ。
桜庭は如月に宇都木のことを全て話すに違いない。
それも汚い手を使うのだろう。
本人に直接話すなど、桜庭の性格からは考えられない。東家を巻き込むことも念頭に置いているはずだった。
どうしよう……。
暑くもない店内が、突然温度が上がったように、体温が上昇しているのが分かる。心拍数が跳ね上がり、額にうっすらと汗が滲んだ。目眩すら起こしそうな状況であるのに、今すぐ答えを出せと桜庭は無言で宇都木に圧力をかけている。
……。
如月に誤解されて捨てられるのと、本当の事を知られて哀れみの目を向けられ、捨てられる。どちらかを選べと言われたら、宇都木は間違いなく前者を選ぶに違いない。
いや……。
どうあがいたところで結果は同じ。
なら、邦彦さんの役に立ちたい。
どうせ、この騒動が収まったとしても、宇都木が如月の秘書として復帰できる可能性はないのだ。一度問題を起こした社員を使うことなどまずない。それは宇都木が一番良く知っていることだった。
例外はない。
企業を守るためには、個人が犠牲になるということだ。
如月が宇都木のことを望んでくれたとしても、企業としては許せないことだろう。
こういう宇都木がいま如月に出来ることは一つだ。
この男の側にいて、出来るだけ情報を集めて、如月を優位な立場に持っていくことだった。いま、宇都木が如月のためにできることは、それだけだ。
そして……。
これが宇都木の最後の仕事になるのだろう。
「分かりました」
ようやく宇都木はそう口にして、桜庭の手を取った。相変わらず湿っている桜庭の手の平に背筋が寒くなる。
「ようやく話を理解してくれてありがたいよ」
にこやかに微笑みながら桜庭は続けて言った。
「上に部屋を取ってある。拒否する気は無いな?」
宇都木は機械的に頷くしことしかできなかった。