「障害回避」 第21章
どうして彼が?
宇都木は名刺を眺めながら、止まっていたような気がする息を吐き出した。
桜庭はことあるごとに如月を邪魔してきた男だ。宇都木もよく知っていて桜庭のことは随分と調べた。その上での感想は、桜庭は如月が見るのも腹立たしい相手と認識しているはずであるのに、絡んでくる奇妙な男である……ということだった。如月がニューヨーク支社にいたころから嫌がらせを始めた。
これも嫌がらせなのだろうか……。
桜庭は日本で有数の資産家である桜庭グループの会長の孫だ。現在、アメリカで修行をさせていると聞いていたが、日本に戻ってきたのだろうか。
如月が日本に呼び戻された段階で、宇都木は桜庭と切れるだろうと思っていたのだが、向こうはそういうつもりはなかったのだろう。だからまた嫌がらせをしようとしている。
あの男は何を考えているのだろう……。
どうしてことあるごとに絡んでくるのか、その理由を宇都木も知っているが、あの程度のことでねちねちと嫌がらせする男には宇都木は見えなかった。
悪い噂も聞かない。女性からも人気があり、社交界にいるどの女性が射止めるのだろうかと噂があるほどだった。そんな男がどうして未だに如月に絡み、宇都木を脅そうとしているのか分からない。
それとも、口を閉ざして話してくれない理由があるのだろうか。だが、如月は桜庭の名前を聞くと苦笑するだけで、他に理由があるようには思えない。
……。
どうすればいいのだろうか。
宇都木は答えが出せぬまま、とりあえず名刺をポケットに入れて、伝票を手に取った。
桜庭が名刺を渡してくるということは、日本に来ているのだろう。だから会おうと言っているのだ。
会いたくない……。
不思議な瞳を持つ男だった。
左右色の違う瞳は、見えないものが見えるのではないかと噂されているほど印象的だった。その色は、桜庭が何を考えているのか分からなくする。
何を企んでいるのか、真下の力を借りればなんとかなるかもしれない。とはいえ、これ以上真下に迷惑を掛けたくないと考えているのも事実だ。しかも、桜庭グループと東グループはあまりいい関係を持っていない。敵対しているわけではないが、何かを頼めるほど懇意ではないのだ。
どちらも戦後、一代で財を成した二人なのだが、方法が東と桜庭では大きく違ったところが互いに認められない垣根になっているに違いない。
自分で何とかしないと……。
精算を済ませた宇都木は店を出ると、タクシーを拾った。如月と住むマンションに早く帰りたくて仕方がない。身体が気怠くて、食欲も全くなかった。奇妙な無気力感が全身を覆っていて、考えることも億劫だ。
それでも片づけなければならない物事は待ってくれない。
シートに深く凭れながら、宇都木は携帯を取りだし、先ほどポケットに入れた桜庭の名刺も取り出す。
深呼吸を数度繰り返し、名刺に書かれた携帯の番号を宇都木はプッシュした。
桜庭へは二コールで繋がった。
「……宇都木です」
『さっそく、連絡を頂けて光栄ですよ』
言葉とは違い、桜庭の口調はどこか冷えている。
「怪しい男を使って、貴方ほどの方が私のようなものと連絡を取りたがるというのは、一体、どういうお考えからですか?」
宇都木は淡々とそう告げた。すると桜庭は電話向こうで小さく笑った。
『怪しい……そうですね。あれで、仕事はできるですよ。といっても、裏方ばかりの男ですが』
「あのような男の話はもういいでしょう。それより、どういったご用件です?」
『私は貴方とお会いしたいと、怪しい男が話しませんでしたか?』
桜庭のバックには人混みにいるような雑音が入っていた。どこか外を歩いているのだろう。
「……うかがっています」
『なら、話は早い。明日、お会いしませんか?』
「拒否はできないのでしょう?」
目を半分閉じて俯き加減で宇都木は言った。心のどこかでは、拒否してもいいと桜庭が言ってくれたら……そんなことを考えている。
『困るのは貴方ですよ』
あくまで紳士に桜庭は言った。
「……明日、どちらでお会いすれば宜しいでしょう?」
宇都木は顔を上げて、額に浮いた汗を拭った。
『六時に自宅へお迎えに上がりますよ。ああ、どちらにお住まいなのか、おっしゃらなくても分かっています』
桜庭の言葉に宇都木は携帯をギュッと握りしめた。マンションに来られて困るのは宇都木だ。如月がそんな時間に帰ってくることはまず無いが、それでも絶対に安心とはいえない。
「私の方からうかがいます。お気遣いは必要ありません」
宇都木の言葉に桜庭は笑う。
『如月に遠慮しているんでしょう?』
「……いえ」
『如月には先程、会ってきましたよ。私も久しぶりでしたし、日本に来たからには彼に挨拶しなければ失礼になりますので……』
驚くべきことを桜庭はあっさりと言い、宇都木は言葉を失った。
会って、何を話したのだ。
そのことばかりで頭がいっぱいになり、何を話して良いのか宇都木は分からなくなった。
「……」
『……まあいい。ご希望に添いましょう』
桜庭はそう言って、待ち合わせの場所を告げた。宇都木はそれを手帳に書き留める。
「明日、必ずまいります。ところで、私と会うことで一体貴方にどういった利益があるのです?」
『そういう話は、明日詳しくしましょう。では』
宇都木の知りたいことなど何一つ話さず、桜庭は携帯を切った。
「……」
明日……。
桜庭は何を話そうと考えているのだろうか。
気分が落ち着かないまま、タクシーはマンションに着いた。
如月は九時に自宅に戻った。
もう、何度思ったか分からないほど、宇都木の顔色は優れない。必死に平静を装っている姿が痛々しい。
「ただいま……未来」
玄関に迎えに出てきた宇都木を抱きしめて、如月は言った。すると、一瞬だけ宇都木はホッとした表情を見せる。
「お帰りなさい……」
「こうやって未来を抱きしめるときが一番、幸せだな……」
宇都木の額にかかる髪を掻き上げて、如月はキスを落とした。すると宇都木は目を細めて嬉しそうに微笑んだ。
「今日は……お仕事いかがでした?問題はありませんでしたか?」
チラリと如月の様子を窺うような目を宇都木は向ける。
「いや。相変わらず、香月はどんくさいくらいで、いつもと一緒だよ。早く未来に戻ってきて欲しいな……」
如月の言葉に宇都木はやや目を見開くと、回していた手を解いた。
「どうかしたか?」
身体を離す宇都木に如月は問いかける。
「……いいえ……」
無理に作った宇都木の笑みは、まるで泣きたいのを堪えているように見えた。