「障害回避」 第26章
「桜庭っ!ここを開けろっ!」
一瞬、何が起こっているのか理解できず、宇都木は惚けた顔で身体を起こすと扉の方へと視線を向ける。扉を突き破らんばかりに響く音は、宇都木の表情から血の気を引かせた。
「どうしてここが分かったんだろう」
桜庭は慌てる様子もなく、硬直したまま扉の方を向いている宇都木に微笑を浮かべた。
「開けろと言ってるんだっ!」
如月の怒りが尋常ではないことを宇都木は響き渡る声で分かった。
怖い……っ!
血の巡りが止まってしまったように指先からも血の気が引く。感覚がなくなり、両足すら、そこに存在しているのか分からないほど、意識が遊離していた。鮮明なのは如月の叫び声だけだ。
「開けるしかないな」
くすくす笑って桜庭がベッドから下りようとするのを、宇都木は掠れた声で止めた。
「……いや……です」
喉がいがらっぽく、言葉が上手く出ない。身体全身が硬直して動かず、毛布に潜り込んで隠れるという行動にも出られなかった。口はなんとか動かせるのだが、小刻みに震えながらも脳の伝達系統から切り離されたような身体は、鉛のようだった。
「いや?どうしてだ。どうせばれることだったんだろう?これはれっきとした君と私の情事だ。そこへ恋人を寝取られた男が怒りを身に纏ってやってくる。素晴らしいシチュエーションだと思わないか?」
ローブの前を軽く重ね合わせて腰紐で縛り、桜庭はニヤリと口元を歪めた。
最初からこうなるように桜庭は計画していたのか。だから、気の進まない宇都木をここに誘ったのかもしれない。
私は……はめられた?
桜庭をはめるのは宇都木の方だったはずだ。それがどうしてこんなことになるのだろうか。如月にいつまでも沈黙を通すことなどできない。いつかばれる。
だが、今、この瞬間ではなかった。
「いや……です」
同じ言葉しか出ない。
何かもっと他に、扉を開こうとする桜庭を止める方法はないのか。言葉でなくともいい。ここに引き戻すことができたら。宇都木の頭の中では、形を取らない様々な言葉や、自分ですら理解できない何かが混沌として混ざり合い、行動に移せなかった。
「嫌と言われても、あれほど怒鳴り声をあげて、扉を叩く男を放っておけないだろう?それとも君が開けてくれるかい?」
「私……」
残酷な一言をサラリと言い放つ桜庭に、宇都木は身が凍る思いだった。桜庭に人の優しさなど求めはしないが、一欠片の人の情を求めてしまうのは、こんな状態に陥った宇都木の僅かな希望なのだろう。
「どうする?」
桜庭の言葉に宇都木は己の身体を見下ろした。肌に浮かんだ朱色の刻印は明らかに如月が付けたものではない。殺しても飽き足りないような桜庭の証だ。そんな己の身体を隠す術も見つけられず、如月の目前に晒すことなどどうしてできるのだろう。
「……わ……私……」
混乱してしまった頭は、物事の判断が付けられない状態だった。台風が己の心に居座って整理整頓されている、様々な思考を完膚無きまで叩き壊してしまったようだ。
「ま、いいさ。情事の後ですぐさま理性が戻るとは、さすがの私も思わないよ。快楽に浸ったあと、いくら君の切れる思考でも、暫くは余韻に浸っているだろうからね」
違うっ!
そう叫びたいのに、言葉が出ない。
桜庭は答えない宇都木に、無情にも背を向けて、未だ叩かれている扉に向かって歩き出した。止めなければならないのに、手すら伸ばせない。桜庭が一歩扉に近づくたびに、宇都木の絶望は確実なものへと変化した。
開けないで。
嫌。
こんな姿を見られたくないっ!
心では叫ぶことができるのに、喉から出てくるのはヒューヒューという空気が漏れるような音だけだ。
心拍数が限界まで上がり、血圧が上昇したまま気を失ってしまうのではないかと思われた。実際、そんなふうに意識を失えた方が気が楽だっただろう。だが、現実は残酷で、望むような結果は与えられなかった。
「五月蠅いな……これ以上叩くな。今、開ける」
扉の鍵を解除し、ノブに手をかける桜庭の姿だけが、途方に暮れた宇都木の瞳に映る。
音も立てずに扉は開いた。
立っていたのは、やはり如月だ。
青い瞳は桜庭ではなく、ベッドに身体を起こして硬直している宇都木に一直線に向けられた。
「どういうことだ?」
宇都木から視線を外さず、暗く、沈んだ声で如月は言った。
「さあて。未来。どう説明しようか?私たちが情事を愉しんでいたことさ」
挑発するように、桜庭は如月に言う。
「そこをどけっ」
扉のところで通せんぼしているように立つ桜庭を如月は見ようともせずに吐き捨てる。
「まだ、これから愉しむつもりなんだ。無粋な邪魔は良くないよ、如月。これは合意の上なんだからな。私が無理矢理ベッドに引きずり込むわけないだろう?これでも紳士だからな」
からかうような桜庭を押しのけ、如月は宇都木の瞳を見据えたまま、近づいてきた。
逃げたい。
隠れたい。
どうにかして己を消してしまいたいと必死に請い願うのに、現実は何もできず、宇都木は強張ったままベッドに座り込んでいた。
「未来。帰るぞ」
血の気を失った手首を掴み、如月は宇都木を引っ張った。すると、明るい室内に照らされた裸体が、露わになる。桜庭の残滓の名残をとどめた宇都木の身体を如月は一瞥すると、手近にあったローブを掴み、無理矢理宇都木の身体に羽織らせた。
苦渋に満ち、歯ぎしりでも聞こえてきそうなほど噛みしめた口元が、小さく震えているのが宇都木に見える。何か言おうものなら、罵声でも浴びせかけられそうな雰囲気だ。
「ちょっと待て。私はまだこれから未来とベッドで大人の遊びを満喫する気でいるんだぞ。勝手に連れて帰られると困る」
やれやれというふうに近づく桜庭に如月は冷えた目つきを向けた。
「ここで殺されたくなければ黙ってろ」
「いいね。その目。北極で見た海の色だ。冷たく、そしてこの世のものとは思えないほど、美しいブルー……」
うっとりした瞳を向ける桜庭に掴みかかろうとした如月に、見知らぬ男が割って入ってきた。
「如月。ここのホテルマンが警察を呼ぶって騒ぎになってるのに、そんな男に構ってないで、さっさと退散しようって」
宥める男を睨み付けながらも、如月は己の内にある欲求をようやく抑えるように、血が滲むほど唇を噛みしめていた。
「……分かった。お前は未来の私物を拾って出てきてくれ」
如月の言葉に男は渋々というふうに、宇都木が脱ぎ捨てた衣服を急いで手に取っていた。
「なあ、如月。怒るなよ。未来の意志だ。人様の意志は尊重しないと……」
「お前が未来と言うなっ!」
掴まれている手首から痛みが走る。なのに、痛さが実感できない。宇都木は三人を眺めているのは自分でも理解しているものの、現実から遊離してしまっていた。いや、これは嘘なのだ、夢なのだといいきかせて、奇跡が現れるのをまっているのかもしれない。
「帰るぞ。宇都木」
床を引きずられるようにして連れ出され、扉を越えたところで如月によって身体を抱き上げられた。抵抗することも、言い訳することもできず、わななく唇は血の気を失っていた。
「未来。どうせまたここに戻ってくるんだろう?いつでも私は迎えてやるから、連絡を寄越してくれ。如月が騒いだことは私がホテルマンに謝罪しておくから」
この場にそぐわない明るい声で桜庭がそう言うのを、宇都木は不思議とはっきりと耳にしていた。
自宅に戻ると、意識があるのかないのか定かではない宇都木を、如月はすぐさまバスルームに連れて入った。
着せて帰ったローブを脱がし、放心したように見える宇都木の瞳を覗き込む。
「未来……大丈夫か?」
如月の言葉に、宇都木は肩を落として目を伏せた。