「障害回避」 第11章
問題の土曜日の朝、宇都木は昨夜からよく寝られなかったため、気分があまり良くなかった。如月もそんな宇都木に気がついていたのか、会社に出るまで心配していたのだから、余程顔色が悪かったに違いない。
だが、宇都木にしてみると如月が自分のことを心配してくれる姿を見るのが嬉しい。こんなに心配してくれるのなら、もっと体調が悪くてもいいかもしれないと、不謹慎にも考えたほどだった。もちろん、心配を掛けたくないという気持ちもある。警察署から戻ってきたら少し横になって眠り、体調を整えて置いた方がいいだろう。
宇都木は既に身支度を終え、独りぼっちになったキッチンで椅子に座って時計を眺めていた。時間はもうすぐ九時になる頃だ。そろそろ真下が顧問弁護士の小早川を伴ってやってくるはず。
警察署で何を聞かれるのだろうか。
宇都木はそればかりここしばらくずっと考えていた。
自分で思い出せることは全て思い出したのだが、幼い頃の記憶は既に薄れ、かなり曖昧にしか思い出せないでいる。
両親は宇都木が小学生の頃亡くなったのだ。既に二十歳を超えている宇都木に、その頃のことを鮮明に思い出せと言われてもとても無理だった。宇都木だけではない。普通の人間は当たり前のことだろう。だが、警察署にいる人間はそんな宇都木のことを理解してくれるのだろうか。
こういったことが初めてだった宇都木は怖くて仕方なかった。
白骨化していたのは一体誰なのか。
そんなことを問われたところで、全く思い出せない。両親が奇妙な宗教に取り憑かれていたことは覚えている。だが、白骨化した子供がそこにどう絡んでいるのかなど思い出せないのだから仕方ない。
信者などいなかった。
それは確信できる。
両親は二人だけの世界で何かを信じていたのだ。
周囲からは変人扱いから、気味の悪い人間へと評価が変わっていったのを宇都木は覚えている。両親の奇妙な行動はそのまま噂になって、小学校で宇都木が苛められる原因となっていたからだ。
優しかった両親。
ごく普通の家庭だったはずが、どこで何が狂ってしまったのか。年月が経ち、それでも今なお宇都木はその理由を突き止められないでいた。もういい、分からないことは考えないでおくのだと、何度自分に言い聞かせてみたものの、ふとした拍子にいつの間にかこのことを考えている。そんな自分に嫌気が差す。
ピンポーン……
玄関の呼び鈴が押され、宇都木は立ち上がった。玄関に向かい、鍵を開けて扉を開くと、真下が立っていた。だが、手には傘を持っている。
思わず真下から視線を外して外の景色を見ると、いつの間にか降り出した雨が周りの建物を霞ませていた。
邦彦さんは傘を持って出たのでしょうか……。
朝、如月を送り出したときには雨は降っていなかった。やや曇っているくらいだったが、予報では曇りだったから、安心していたのだ。
「おはよう、宇都木。どうした、眠れなかったのかい?」
宇都木の姿を見て笑顔だった表情をやや曇らせて真下は言った。
「え、あの……はい。いろいろと考えてしまって。今日はお忙しいところ真下さんを付き合わせることになってしまって申し訳ありません……」
「私は構わないよ。こういうことがないとなかなか外に出ないからね。たまには外の空気を吸うのも気分がいい。用意はできているかな?下で車を待たせてある」
真下は濃い紺色のスーツを上品に着こなしていて、エンジのネクタイを締めていた。スレンダーな身体はカッチリとしている。どこか上品さが漂っているのは、整った顔立ちに浮かぶ穏やかな表情からくるのかもしれない。
「はい……大丈夫です」
宇都木は既に用意していた靴を履き、シューズボックスの脇にいつも用意している傘を持った。
「じゃあ、行こうか」
促すような真下に、宇都木は小さく頷き、表に出ると扉の鍵を閉めた。
「そういえば、宇都木に頼んだ鳩谷君の問題集作りはどうかな。もしよかったら今日もらって帰ろかと思っているんだよ」
エレベーターに乗ると同時に真下はそう言った。
「たくさん作っておきました」
「はは。鳩谷君も喜ぶだろうね。宇都木がつくったものだから、嫌な勉強でも必死になってやってくれるだろう」
目を細めて、楽しそうに真下は言う。
こういう真下はあまり見られないため、宇都木もつられて思わず笑みが浮かんだ。
「必死になってもらわなければならない年齢なんですが……。ただ、恵太郎さんはあまり学業は向いていない性格かもしれません」
「それは私も最初から思っていたことだ。だがね。必要な知識としての勉強はしてもらわないと私も困るんだよ。それにしても今までにない子供を相手にしているからか、私も調子を狂わされっぱなしだ」
真下は困った顔をしつつも楽しんでいる様子だ。
「でも、性格はとてもいい子だと私は思います。恵太郎さんを見ているとなんだかとても癒されるんです……」
それは宇都木の本音だった。
恵太郎は不思議な子供で、側にいるとどうしても面倒を見てやらないとならない気分に駆られるのだ。だからといって、手に余って困るというものではない。本人は何事も一生懸命で、こつこつと頑張ろうとする。ぼんやりなところがあるが、性格はとても優しく、ひとを騙そうなどとは考えないタイプだ。
「ああ、分かるよ。あれが彼の人徳なのだろうね。まあ、人徳と言って良いのか分からないんだが……」
う~んと唸りながらも、真下が笑っていると、エレベーターは一階につき、二人はそろって駐車場に歩き出した。すると、黒塗りのリンカーンが停められていて、脇に運転手の笠松が黒いスーツに身を包んで立っていた。
「お久しぶりでございます……」
笠松は宇都木の姿を見て、嬉しそうにそう言って後部座席の扉を開けた。中には小早川が座っていて、宇都木を見ると軽く会釈する。
「本日は、お忙しいところ申し訳ありません……」
宇都木は後部座席に乗り込みながら、小早川に言う。
「いや。構わない。本来の得意分野は刑事事件の弁護士だからね。安心してくれていい。そういえば、久しぶりに会ったが、宇都木くんも随分立派になったな……」
小早川はもうすぐ六十になる男だったが、どう見ても五十代に見える。日焼けした肌が若々しく、あまり皺がない。その上、キビキビした仕草がそう見せるのだろう。
「ありがとうございます……」
よく知っている人間に会うと、ザワザワと落ち着きを無くした心を落ち着かせてくれる。宇都木に必要だったのは、こういった相手との会話だったのだろう。
「そうでしょう。こういう宇都木を私は本当に手放したくなかったんだがね……」
隣に座った真下が笑って言っていると車が静かに駐車場から移動して、走り出した。
「ところで、本題に入りましょう。警察署での事情聴取には真下さんは立ち会えませんが、私は弁護士として立ち会えます。聞かれることには素直にお答え下さって構いません。ただ、不味いと思われるような答えは黙秘されても構いません」
不味いと思われるような答え……。
何となく小早川が言い含んでいることを予想できたが思わず宇都木は声にしていた。
「それは……。殺人……という意味でしょうか?ですが、私が思い出せる範囲ではそういった事実はありませんでした」
「そうですね。警察側としてはそういったことも宇都木さんに聞かれるだろうと予想しています。必ず質問事項に上げられているはず。ただ、宇都木さんは当時幼かった。それを理由に思い出せないという答えを返されても一向に構わないんですよ。下手に黙秘を使うよりいいでしょう。そうですね、都合の悪いことは全て幼い頃のことだから思い出せないということでいきましょう」
一人納得したように小早川は言った。
なんだか、覚えているのに嘘を付けと言われているような気がして宇都木は気分が滅入りそうだ。かといって、真実がどうなのか宇都木にも分からない。本当に覚えていないのだから嘘を付くわけではないのだから深く考えることもないのだろう。
「分かりました。そのように致します」
宇都木の気持ちを察したのか、真下は無言で肩を数度、ポンポンと軽く叩いてきた。まるで味方はたくさんいるのだから安心しろと言われているような気がして、宇都木は冷えてしまいそうな心を、真下の励ましでようやく温めることができた。