「障害回避」 第24章
昼からの会議に出るまでにためていた書類に捺印を押していたが、昨日からあまりにも宇都木の様子がおかしかったので、如月は心ここにあらずの状態が続いていた。
秘書という仕事を無理にでも続けさせた方が良かったのだろうか。
たとえ、真下が何を言おうと、どういう思惑があって宇都木を解雇状態にしたのか、そんなものはどうでもいい。仕事させることが……いや、社員として名を名簿に載せることだけが問題なら、何もさせなくてもいいからこの部屋の片隅にでも座らせておいた方が良かったのかもしれない。
日を追うごとに生気を抜かれていくような宇都木を見ているのが堪らないのだ。笑顔も減った。いや、無理に作る笑顔が痛々しいだけだ。分かっているのに問いつめられない自分の不甲斐なさに、ため息で誤魔化すにも飽き飽きしている。
「如月さん。もうすぐ会議の時間です」
ようやく少し慣れた香月が、笑みを浮かべてそう言った。
「ああ……分かってる。これだけは済ませておかないと、香月が会計に責められるだろう?」
いくつもの承認書に捺印を押して差し出すと、香月は肩を竦めて照れくさい表情になった。最初はどうなるかと思っていた如月だが、慣れてくると香月も随分と手際が良くなってきて、注意することも減った。話してみると意外に、好青年で、印象も悪くない。
とはいえ、秘書という仕事より、第一線に出した方が仕事が出来るタイプではあった。いずれ宇都木が戻ってきたら営業の方へ戻してやるのがいいだろう。
「他に急ぎはないな?」
とりあえずの仕事をこなし、如月がそう言うと、香月は「ありがとうございます」と言って軽く頭を下げた。
「じゃあ、会議に……」
椅子に掛けていた上着に手をかけたところで、携帯が鳴った。
「……如月ですが……あ……ああ、今か?」
チラリと香月の方を向き、手で外に出るように指図すると、如月は手に取った上着を羽織りつつ椅子に腰をかけた。
『……大変なことになってるんだけど……どうする?』
神崎は一応冷静ではあるが、声が裏返っている。そんな神崎に不審を感じつつも、香月が出ていくのを見届けてから応答した。
「……悪い。今、秘書がいたからすぐに話せなかった。もう、出ていってもらったからいいぞ。何かあったのか?」
『いや、何か……あるのかどうか分からないんだけどさ。ほら、監視して欲しいって言われていた、宇都木って如月の恋人のことなんだけど……』
神崎の声が遠くなったり近くなったりして聞き取りにくいが、随分慌てているのだけは分かった。
「はっきり言ってくれないと分からない。どうしたんだ?早く話してくれないか?私はこれから会議に出なければならないんだ」
チラチラと時計を眺めながら、如月が言うと、神崎は電話向こうから聞こえるようにため息をついた。
『いや……なんていうか、僕はこういうのよくわからないんだけど、例の桜庭って男。こいつはまだ僕の方でも把握してないんだけどさ、その男と如月の恋人が最初はこう、二人きりで喫茶店にいてなにやら話し込んでいたんだよ。僕も店に入ろうとしたんだけど、貸し切りだって止められてさあ、仕方なしに外から様子を窺っていたんだけど……。しばらく話し込んでいたと思ったら、今度は二人して手を取り合って、ホテルの上の階に上がっていったんだよ。これってどういうことだと思う?』
一瞬、神崎が何を口にしたのか如月には分からなかった。
宇都木と桜庭が会っていたことも驚くべきことだったが、何故二人が手を取り合うのかも如月には想像すらできない状況だ。
「どういうことなんだっ!」
思わず張り上げた声が、室内に響く。
『……僕は知らないよ。……やっぱあれ?昼間の情事ってやつ?……如月、あのさあ、これってやっぱり浮気調査って言うんじゃないの?』
「違うっ!」
如月は神崎の言うことが信じられなかった。だが、神崎が嘘を言う男でもなければ、こういう状況をからかう男でもないことを知っている。だから、見たまま報告してくれているのは分かっているのだが、如月が信じたくなかったのだ。
『信じたくないのは分かるけど……さあ。なんていうか……こればっかりは僕も慰めようがないよ』
「別に慰めなど必要ない。何か事情があるんだろう……ただ、私が知らないだけだ。そうでもなければ、未来があんな男についていく訳などないだろうっ!」
桜庭がどうせ何か企んでいるのだろう。
何処までも腹立たしい男だ。
『……事情ね。恋人を裏切るような行為なんて、どういう事情があっても僕には理解できないけどさ』
つまらなさそうに神崎は言う。
「未来のことはいい。一体、今、お前は何処にいるんだ?」
『え、神田だけど、今からこっちに来てももう遅いと思うけど……。それより、如月は仕事中なんじゃないのか?』
「そんなことはどうでもいい、どういった方法でもいいから、お前がなんとかしろっ!」
今からでも駆けだして行きたい気分だが、とても間に合いそうにない。間に合うとすれば神崎しかいないのだ。だったら、神崎に何とかさせるしかないだろう。
『え?なんとかって……なに?』
とぼけているのか、それとも本当に分からないのか、神崎は素っ頓狂な声を上げた。
「ふざけるな。お前が邪魔をしてこい」
『邪魔って……そんな仕事まで僕は受けないよ』
慌てて神崎は言うが、ここで頼めるのはこの男しかいない。
「仕事じゃない。友達として困っている私を助けてくれてもいいんじゃないのか?」
こんな会話に時間を費やせない。もしかするとすでに遅いかもしれないのだ。だが、宇都木と桜庭のことを知って、このまま指をくわえている訳にはいかなかった。
『……困ってるのは分かる。確かに如月が可哀想だと僕も思うよ。だけどさあ、その……恋人だけど、もしかしたら宇都木って男の方が気にいっていて、実は如月に話せなかった……という場合もあるだろ?』
「そんなことはないっ!ぐだぐだ言ってないで、何とかしろっ!いいな。分かったなっ!未来に何かあったら、神崎にも責任を取ってもらうぞっ!」
ドンと机を叩き、如月は怒鳴った。
『……ボーナス弾んでくれよ……』
弱々しい、あまり頼りにならない声で神崎は言い、携帯を切った。すぐさま如月は宇都木の携帯を鳴らしてみたが、神崎の言葉を裏付けるように繋がらない。
「くそっ!」
一体どうなってる……。
如月は混乱したまま、立ち上がることができなかった。
悩んでいたのはこのことだったのか……と、そんなことすら考える。だが、仮に、宇都木が心変わりしたとして、いくら何でも相手が桜庭とは思えない。もしかすると何か弱みを握られている可能性があるのだ。
それを悩んでいた?
……。
わからん。
宇都木はあまりにも如月に自分の心の中にあるものを話さないのだ。いつだって自分でなんとかしようとして空回りしている。何故、恋人である如月に一言も言わないのだろうか。多分、真下には話しているような気が如月にはした。
どうして、真下に話せて如月には口を閉ざすのだろう。それが如月に理解できないことだ。とはいえ、もし、桜庭のことを真下が知っていたなら、止めていたに違いない。そういったことを許す男ではないからだ。
では、やはり宇都木は勝手に自分で決めて行動しているのか。
もういちど机を叩き、拳を解くことができずに如月は手を震わせた。
何故、何も言わない……。
どうして頼らないんだ。
私は一体……お前の何なんだ?
じっと虚空を眺めて眉間に皺を寄せていると、香月が扉を叩く音が聞こえた。
「何だ」
「……あの……会議は始まっているんですが……」
そろりと扉を開いて顔を覗かせた香月は、如月の表情に驚いて身体を強ばらせた。
「……分かってる」
だが、如月はすぐには腰を上げることができなかった。
今は……神崎からの連絡を待つことが最優先だったからだ。