「障害回避」 第49章
目が覚めると、見知らぬ場所に宇都木は座っていた。
辺り一面が真っ白で、ふわふわした綿毛が舞っている。建物や木々といったものは全く見られず、どこまでも白い大地が広がっていて、空は真っ青で雲一つない。
ここは……どこなんでしょう……。
確か、宇都木は遊園地にいたはずだ。なのにどうして見知らぬ場所にいるのだろうか。それともこれは夢なのか。
「未来……」
誰かに呼ばれ、宇都木は座ったまま、肩越しに振り返った。
「えっ……」
そこに立っていたのは、両親だった。
二人はひっそりと立っていて、死の直前に見せていた険のある顔ではなく、穏やかな表情をしていた。遠い昔、まだ家族として成り立っていた頃の、両親の姿だ。
「お父さん……お母さん?」
いや、両親はすでに他界していて、会えるわけなどない。
「未来……大きくなって……」
母親はそっと近づき、手を差し伸べてくる。けれど、宇都木は差し出された手を取ることができなかった。
「……これは一体……」
夢なのか、それともこれは現実で、未来が望んでいたように、死の世界に旅立てたのか。だから両親が迎えに来たのだろうか。
「貴方は幸せ?」
母親は前に回り込んで膝をつくと、宇都木の頬を撫でた。柔らかい指の感触、そして懐かしい香りがリアルに漂う。それは宇都木が小さい頃、母親に抱きしめられたときに嗅いだ香りだった。
ここは死の世界で、両親が宇都木を迎えに来てくれたのだとでもいうのか。
「私は……死ねたのですね?」
宇都木が訊ねると、母親は後ろに立っている父親の方を向く。
「いいんです。迎えに来てくださったのでしょう?」
そう、宇都木は死にたかったのだ。
如月の枷にならないように、自らの存在を消そうとした。それが叶えられたのだ。
「いいえ。私たちはようやく機会を得て、ここに来たのよ。ねえ、お父さん」
母親がそう言うと、父親は小さく頷いた。
「機会?」
宇都木が言うと同時に、母親は宇都木の身体をギュッと抱きしめた。その力は強くはないものの、確かに触れることのできる肉体を持っている。
「お父さんもお母さんも……未来に謝りたかったのよ……。ずっと……ずっとね。もっとたくさん未来を愛してあげられたらよかった。家族の時間を大切にすればよかった……そんな後悔をしてみても、もう無駄だけど……」
母親はそう言って身体を離す。すると優しい光りを灯す目に涙が浮かんでいた。
どこか儚げな母親だった。夏になると手袋や帽子が必需品になるほど、肌が弱く、外出もあまりしなかった。けれど、遠足には必ず手製の弁当を作って持たせてくれたし、学校の行事には父親と一緒に来てくれた。
父親は口べたで人付き合いの苦手なタイプだった。けれどいつも仕事から帰ってくると、宇都木を膝に乗せて、いろいろな話を聞かせてくれたのだ。
そう、あの宗教に心酔するまでは、宇都木にとって自慢の両親だったのだ。
「……お母さん……」
「未来……ごめんな。お父さんと、お母さんを許してくれ」
父親が母親の隣に膝をつき、宇都木の肩に手を添えた。力強い大きな手だったはずなのに、とても弱々しく感じられた。きっと宇都木が大人になったから、そう感じるのかもしれない。
「未来を愛しているわ……」
「ああ……お父さんもだ」
両親は心の底からそう宇都木にそう言っていることが分かった。
あの、宗教に心酔した父親は、宇都木を殴り、それを母親はとめることができなかった。何度、宇都木は泣いただろう。どうすれば元の優しい両親に戻ってくれるのか、そればかり考えていた。
今、それが叶えられたのだ。
「……私っ……」
宇都木は不意に涙がこぼれ落ちた。
長い間、両親のことを疎ましく思ってきた。
あの事件を、ことあるごとに宇都木を苦しめていたあの出来事を。それは心の中に突き刺さった棘のように、深いところに存在していて、抜けることがなかった。
けれど、今、ようやく痛みの原因になっていた棘が消えていく。
「私たちはこうなってしまってから、後悔することができたのよ。でも、未来は生きている間に後悔をしなさい」
母親の手が離れる。
「後悔した後は、そこから学ぶんだぞ。そうすれば、未来は幸せになれる……」
父親の手も離れた。
「待ってください……私……」
もっと話したいことがある。聞きたいことがある。なのに、両親の姿がどんどん景色に溶けていき、最後には消えた。一人取り残された宇都木は、自分がどうしていいのか分からず、急に襲ってきた孤独感に涙が止まらない。
「私……どうすれば……」
宇都木が何度か瞬きをすると、突然、闇に包まれ、次に目を開けると如月の顔がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。
「……」
如月は何かを口にしているのだが、宇都木にはよく聞き取れなかった。いや、先程まで見ていた景色はどこにもなく、両親の姿もない。あれは夢だったのだ。そして、如月の顔が見えるのも、新たな夢が始まっただけなのだ。
「……らい。……未来っ!私が分かるか?」
今度はハッキリと如月の声が耳に入ってきた。
それに答えようとするのに、声は出ず、身体は鉛のように重い。
これも……夢ですよね?
これも……。
ぼんやりしている視界は、宇都木がどこにいるのかを分からなくしている。
きっと如月に会いたいと思う気持ちがあるから宇都木の夢に出てきたのだろう。両親に会ったのも、同じ理由に違いない。
夢なら、キスをねだってもいいだろうか。
抱きしめて欲しいと頼んでも、いいだろうか。
けれど、声が出ない。
夢は大抵が思い通りにならないものなのだ。
「真下さんっ! 未来の意識が戻りましたっ!」
宇都木が肩を落としていると、如月の怒鳴り声が聞こえた。
夢にすると奇妙なほどリアルな光景に、宇都木は目を瞬く。
「もう、大丈夫だからな。よかった……」
如月がギュッと宇都木の手を握りしめ、涙を落としていた。その雫が手に触れると、生温かい感触が伝わってくる。
「ゆ……め……じゃ……ない?」
宇都木は恐る恐る、そう声に出した。
ようやく出た言葉は老婆のように掠れていた。