「障害回避」 第2章
「未来は観覧車が好きなのか?」
にこやかな表情をしている宇都木に、如月は聞いてくる。
「え……ええ。観覧車には素敵な思い出があるんです……」
事実は、いい思い出と悪い思い出だ。
だが、如月には悪い方のことを口にしなかった。くつろいでいる時間を、過去の嫌なことで壊したくなかったのだ。
「そうか……ふうん。素敵な思い出か……どういう思い出なんだろう」
チラリと如月が横目で宇都木を眺める。
「両親と一緒に乗りました。母は朝からお弁当を作って……父は私に新しい靴を履かせてくれたんです。私、新しい靴を買ってもらったのが嬉しくて、全部は思い出せないのですが、とても欲しかった靴でしたので、随分はしゃいだ記憶があります」
観覧車を仰ぎ見ながら、乗り場に向かって宇都木は如月について歩く。近づけば近づくほど、圧倒的な大きさが実感として湧いてくる。夜になればさぞかし綺麗なのだろうと思わせるイルミネーションが支える柱や、交差するパイプにつけられていて、宇都木は夜に乗ればよかったと少しだけ後悔していた。
「……はしゃぐ未来は想像つかないんだが……」
如月は小さく笑う。
「え、あ……そうですね」
「私も……そうだな。家族で何度か遊園地には行ったよ。当時背が低かったものだから、乗りたかったジェットコースターに身長制限で引っかかってね。でも、兄さんは乗れたんだ。それが悔しくて、チケット売り場で散々ごねたんだ。あのとき、両親が随分困っていたのを覚えているよ。その変わり、出店で玩具のミニカーを買ってもらったんだが……。今度はそれを見た兄さんがごねたんだ。また困った両親が、兄さんにもミニカーを買ったのを見て、私はすごく差別されたと感じたんだ。帰宅してから丸一週間ほど拗ねていたらしい。今から思うと、どうしてあんなにジェットコースターに乗りたいと思ったのかも思い出せないし、その程度でなぜ拗ねたのか分からないんだが……」
青い瞳を眇めて、遠いところを見ながら如月は言った。
「私は一人っ子でしたので、逆に兄弟喧嘩ができた邦彦さんが羨ましいです」
「そうか?なんにしてもお下がりで、毎回兄が新しい服を買ってもらうのを見て、随分むくれたもんだよ。お兄ちゃんなんて大嫌いだ……ってね」
くすくすと声を上げて如月は笑う。
兄弟……。
兄弟がいたらどうなっていたのだろう。
宇都木は幸せそうに笑う如月を見つめながらそんなことを思った。確かに小さな頃は随分と大事にしてもらったような気がするのだ。季節ごとの行事も家族で出かけて楽しい時間を過ごしたはずだった。幼かった頃の話であるから、全て思い出せないのが辛いほど、後に心酔した妙な宗教にがんじがらめになってしまった両親のことは思いだしたくないほどのものになっている。
「未来……?」
過去の思い出に引きずられて、一瞬今どこにいるのかも分からなくなっていた未来だったが、如月の声にようやく現実に戻ることができた。
「……あ。はい」
「どうした?ぼんやりして。乗り場だぞ。どうする?」
「乗ります。すみません。あんまりお天気がよくて心地よかったものですから……つい……」
チケットをポケットから出して、宇都木は乗り場の係員に渡した。男二人連れで観覧車に乗るのか……という表情を向けられたものの、別になにか口にされることはなかった。もっとも、向こうからすれば、こちらは客なのだから、例えどう思ったとしても言葉にすることはないだろう。
がらがらに空いた園内と同じように、観覧車も空いていた。前後に誰も乗っていないのも、人気がないことを如実に物語っているのだ。だが、宇都木からすると顔見知りに出会う危険もなく、安心していられる。もう二度とここには来ないだろうから例え誰かに覚えられたとしてもいつか記憶の底に沈んでいくに違いない。
「結構高いところまで上がりそうだな……」
観覧車に乗り込み、ゆっくりと空中に上がっていく様を眺めながら如月は呟くように言った。どこか子供っぽい笑みを浮かべているのは、過去の楽しかったことを思いだしているに違いない。
「きっと、海も見えますよ。その向こうも……」
如月と対面するように向かい側に座り、宇都木はガラス窓の向こうに広がる景色を眺めた。歩いている人がまるでありのように小さく見え、眼下に広がる景色はその様相を変えていく。
立ち並ぶ家並みや、まだ混み合っている道路。なにもかも自分達より下にあり、玩具の模型を見ているような気分に陥りそうだった。
「そうだ……未来」
「はい」
窓から見える景色から顔を逸らせて、如月の方を向く。
「今抱えているプロジェクトが終わったら、しばらく休みが取れるだろうから、どこか旅行に行こうか。未来はどこか希望があるか?どこでもいいぞ。海外でも日本国内でも……お前が行きたいところに行こう」
「私……私は邦彦さんが行きたいところならどこでもいいです」
椅子に座り直して、宇都木は微笑んだ。こうやって、一緒にいるだけで宇都木は満足なのだ。これ以上を求める気はない。
「全く、未来はすぐそれだ。分かっていて問いかける私ももう少し考えた方がいいんだろうか……」
苦笑いしながら如月は頭を掻いた。
「本当のことです。私……邦彦さんの側にいるだけで、充分幸せですから……」
仕事も生活も一緒。ずっと望んでいた場所だった。秘書として、恋人として側にいる。これ以上なにを求めていいのかも、既に満足している宇都木からすると考えられないと言った方がいい。
「じゃあ、そうだな。国内と海外。それくらい選んでくれ」
「……私は……あ、では、国内にて欲しいです。海外だと飛行機に乗る時間が長くて、せっかくの休暇なのに邦彦さんを疲れさせてしまいますから……」
真面目な顔で言うと、如月はそっと手を差し伸べて宇都木の頬を撫でた。指の腹は暖かいのだが少し硬い。だが、宇都木にとっては指先から伝わる如月の愛撫だった。
「私のことばかり考えていないで、未来の希望も言ってくれないか。お前が行きたいところに私も行きたい……」
何度も頬を撫でて、如月は言った。愛されているのをヒシヒシと感じながら、宇都木は口を開く。
「国内にしましょう。あとはどこかゆっくりとできるところで、邦彦さんが選んでください。決めて下さったら後は私が手配いたしますので……。その……これ以上私に希望を聞かれましても……お答えできません。いいえ。本当に困ります……」
困惑したように宇都木が答えると、如月の指先が唇に触れる。縁をなぞり、唇の形を確認するように動かされる指先に、宇都木はゾクリとしたものを感じた。
「そうか。じゃあ、湖畔の別荘か、温泉にでも行こうか。ロッジという手もあるな。どちらにしても日頃の疲れを取るには最適だろう。こればかりは私が探して手配するよ。私が誘ったことだからな」
フッと唇から指先を離され、宇都木は名残惜しそうな瞳を如月に向けた。
「可愛いな……未来は」
青い瞳に吸い込まれるように、宇都木が腰を浮かせたところで自分の携帯が鳴った。
「……す、済みません。電源を切っていませんでした」
「いや……いいよ。仕事の件だろう。私を呼ぶ電話だったら、不在とでも言ってくれ。ようやく取れた休日まで振り回されたくない……。あ、相手にも寄るが……」
「ええ。それはもちろん」
浮かせた腰を下ろし、宇都木は携帯を取った。
相手は真下だった。
『休日に済まないね。少々問題が出てしまって、東家に今からすぐに来てくれないか?』
押さえている口調であったが、どこか真下の声には翳りがあった。
「え……ええ。邦彦さんでしょうか?」
こちらを窺う如月の方をチラリと見て、宇都木は聞いた。
『いや。宇都木に用事があるんだ。別に邦彦を連れてきてくれても構わないが』
なんとなく嫌な予感がした宇都木は真下の提案に首を縦に振ることはできなかった。
「いえ。私だけ参ります。今、浦安の方にいますので、夕方頃にそちらに伺えると思います。では、失礼します」
真下の言葉が発せられる前に、宇都木は携帯を終わらせた。会話が続くことで如月に話の内容を知られるのが嫌だったのだ。
「誰からだ?」
慌てて携帯を終えた宇都木に怪訝な表情を如月は向けていた。
「いえ……真下さんからです。邦彦さん。申し訳ないのですが、私、すぐにこれから東家に伺う約束をしてしまいまして……。宜しいですか?」
真下の名前を耳にした如月は、小さなため息をついて観覧車の窓の方を向くと、不機嫌そうに「そうか」とだけ言った。