Angel Sugar

「障害回避」 第35章

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「……」
 格子越しであったが、未来は緩やかな抱擁を受けていた。決して格子で宇都木を傷つけないよう、そんな労りすら感じられる抱擁だ。ようやく触れ合っているだけなのに、宇都木は如月から伝わる温もりに、胸が一杯になって言葉が出なかった。
「全てが終わったら未来を迎えにくる」
 そろりと身体を離し、それでも如月は宇都木の肩を掴んだまま言った。
「……邦彦さん……私は……」
 目を伏せた宇都木の額に如月は軽いキスを落とす。思いも寄らない感触に驚いた宇都木が、如月から距離を取ろうと後退ったものの、如月に掴まれていためできなかった。
「……私……っ」
「逃げるな、未来」
 振り払おうとするのに、如月は離そうとしない。その手が急に怖くなった宇都木は如月の手を何度も引き剥がそうとした。
「ご……ごめんなさい、邦彦さん……私……ごめ……っ!」
「逃げるんじゃない」
 如月は決して責めているわけではない。声を荒げることもない。如月の瞳には同情も哀れみも浮かんでないのに。
 こうやって側にいると責められているような気がするのだ。
「……ごめんなさい……」
「未来っ!」
 ひときわ高く名を呼ばれ、宇都木は我に返った。
「……あ……」
「未来、逃げるな。いいな」
 心の中まで見通すような青い瞳が宇都木を見つめていた。羞恥と後悔で宇都木は身が焦げそうだ。如月の側にいたいのに、彼の手の届かないところに逃げ出したくて仕方がない。
「……離して……下さい」
「お前の名前は?」
 如月は突然宇都木にそう言った。
「私の……名前……」
「そうだ。両親が付けてくれた名前はなんていった?」
「未来……」
「お前が両親から託されたのは、過去じゃない、未来だろう? だったら、いつも前を向いていないとな」
 そろりと宇都木の髪を撫で上げて、如月は微笑した。全てを包んで温めてくれるような、笑顔だ。宇都木は身体の震えが収まり、冷えた心がいつの間にか温もっていることに気付いた。
「……はい」
 宇都木の瞳に浮かんだ涙は如月の指先が拭い取り、そのまま頬に添えられる。顔を両手で挟まれた宇都木は如月から視線を逸らすことができない。
「未来、笑ってくれ」
「……私……」
「笑ってくれないと、次に迎えにくるときまで、私はお前の寂しそうな顔しか思い出せなくなる……それはきついぞ」
 笑えるものなら笑いたいのだが、努力しても顔が引きつったまま、如月の望むような表情をつくることはできなかった。
「くすぐってやろうか?」
 真顔で如月はそう言った。ふざけている様子はない。
「何をおっしゃっているんですか……」
「お前は分からないだろうが、息苦しいような笑顔を見せられた私が、今、どれほど笑いたいのを堪えていると思っているんだ?」
 如月は苦笑いを浮かべている。余程、宇都木は変な顔をして見せたに違いない。
「す……すみません……私が邦彦さんを笑わせてしまったのですね……」
「まあ……いい。次に会うときに笑ってもらうとするか」
 ようやく手を離して、如月は宇都木の身体から距離を取った。手を伸ばせば届くほどの距離がとても遠く感じる。
「それまで、思い出すと私の方が笑ってしまうような未来の顔を覚えておくよ」
 如月は車のドアを開けながらそう言った。
「そんな……邦彦さんっ!」
 車に乗り込んだ如月は、答えることなく去っていく。それを見えなくなるまで宇都木は目で追っていた。
 私が託されたのは……未来……。
 その言葉が心の中にずっと残っている。
 両親は本当にそう願ってつけてくれたのだろうか。
 彼らの人生が狂う前の話だ。だから、きっと両親は自分の幸せを願い、明るい未来を望んでつけてくれた名前なのだろう。
 宇都木はしばらく格子に手を置いたまま、如月の車が去っていった道を見つめていた。
 如月は強い。
 桜庭がどんな手を使ったところで負けることなどない。宇都木はそれをよく知っていた。桜庭はもともと金を持った家でぬくぬくと育った男だが、如月は違う。いや、あの兄弟は違うのだ。互いに支え合う強さも持っているが、何の後ろ盾もなかった彼らがあそこまで上り詰めることができるのも、実力の現れだ。
 もっとも、兄にあたる秀幸は如月よりもしたたかなところがあって、東の孫娘である舞を妻として娶った。だが、出世だけで選んだ伴侶でないことは、あの夫婦を見ているだけで分かる。彼らは愛し合っていて、互いに必要としている。その上で、利害が一致している珍しい例なのだ。
 カサカサと木々の揺れ、宇都木の髪をたなびかせた。先程、如月に触れられた部分を指先で辿り、その時感じた温もりを忘れないように心に刻む。
「宇都木先生……」
 不意に声をかけられた宇都木は思わず身体を強ばらせたが、振り返ると恵太郎が木の幹に掴まりながらこちらを覗き込んでいた。
「……け、恵太郎さん。見ていらしたのですか?」
「え、ううん。今、来たところです。もう帰っちゃったんですね、如月さん」
 隠れていた幹から姿を出し、恵太郎は近寄ってきた。手には相変わらず亀を掴んでいる。
「あまり水槽から出すと、弱りますよ」
「あ、はい。あの、真下さんが呼んでました」
「ええ、もう戻ります」
 ようやく歩き出した宇都木の手を恵太郎は握りしめて、大きく前後に振った。
「……恵太郎さん?」
「僕、こうやって手を繋ぐの好きなんです。もう高校生になったのに、変ですけど……。きっと、父さんが手を繋いで振ってくれたことを思い出すからかも」
 恵太郎はにこやかな顔でいて、ちょっと鼻の頭を赤らめ、子供がするように繋いだ手を振っていた。
 宇都木は恵太郎の手を振り上げる仕草に、遠い昔、確かにこうやって両親に手を繋いでもらったことを思い出していた。
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