Angel Sugar

「障害回避」 第29章

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 宇都木は眠っているはずなのに、閉じられた瞳から涙が滲み、頬を伝う。一瞬、実は眠っていないのではないかと思ったが、口元が薄く開いていて、起きている様子はない。如月はベッドから下り、電話の受話器を上げると、真下へ電話を掛けた。
 電話は間をおかずに繋がった。
「お忙しいところ済みません。邦彦です」
 如月の言葉に真下は普段と変わりない声で応対した。
『久しぶりだね。突然の電話というのは何かあったのか?』
「……無理を承知でお願いしたいのですが……」
 喉から絞り出すように如月は言った。
『邦彦がそんなふうに頼んでくると怖いんだが……』
「未来を暫く東家で面倒を見てやってくださいませんか?真下さんがいいとおっしゃってくださるのなら、今すぐにでも連れて行きます」
 如月の言葉に真下は驚く様子もなく『いいとも。歓迎するよ』と言った。
「ありがとうございます。助かります」
『事情はこちらに来てからゆっくり聞かせてくれるんだろうね?』
 穏やかな声で真下は言うが、有無を言わせない響きを伴っていた。
「はい。そのつもりです。後ほどおうかがいします」
 電話を終えた如月は眠る宇都木に衣服を着せ、己自身も着替えた。宇都木はぴくりとも動かずに如月に身を任せている。夢を見ているのだろうか、それとも深い眠りについていて、苦しむことなく眠りに包まれているのか。
 如月は眠っている間くらい、宇都木が穏やかな時に抱かれることを祈った。



 嫌な予感がするな……。
 如月からの連絡を受けて、真下は椅子に座ることなく窓から見える景色を眺めた。いつもと同じ景色。ここにいると時間が止まっているようにも思える。庭は設置された灯りで噴水を浮かび上がらせていた。周囲に施された煉瓦色のタイルが暗がりの中縁を鈍く光らせて、門まで続いていた。
 静まりかえった屋敷内はいつも通りだ。
 だが、その静寂も外見だけで、真下のいるこの部屋では毎日いろいろな問題が起こっていた。真下は的確な指示を出し、私設秘書と呼ばれる人間を派遣したりして東グループを固める親族を監視している。身内の統制が取れていないとグループ企業は直ぐに衰退することを東は良く理解しているからだ。統制と言ってしまうと独裁的に思われるが、そうではなく、汚職や賄賂に手を染めていないかという監視を主にしているだけだ。家族内の紛争にまで口を出すことは滅多にない。もちろん、何の脈絡もなく近づく人間にはそれなりの調査が入る。
 全ての人間が悪意を持つとは考えていないが、金が集まるところには好むと好まざるともそう言った人間も集まってくるのだから仕方ない。できうる限り世間に対してクリーンなイメージを作るのも、巨大グループに課せられた仕事と言っても良いだろう。
 私設秘書は企業間の問題を解決するためにいるわけではない。東グループの中枢にいる人間の、人間関係を円滑にさせるために存在していた。ただ、円滑にさせるために企業同士の問題に手を加えることもしばしばだ。
 こんな奇妙な秘書はいないと思うが、東はこと人間同士の関わりを大切にしてきた。それ故にできたチームだ。私生活が安定しない人間はろくな仕事をしないという東の考えから来ているのだった。
 真下からするとそこまで守ってやらなければならないのか――と思う親族連中もいるが、東からすれば全てファミリーという意識なのだ。もっとも、人が良すぎて騙されやすい人間も含まれているから、東の心配も理解できる。
 かといって、東は甘い人間ではない。切り捨てるときはあっさりと切り捨てる、冷酷な一面も持っていた。だがそれも巨大グループを維持するために必要な決断なのだ。しがらみにがんじがらめになり、決断が遅れた場合、損害は計り知れない額に登るからだった。
 東が気に入った人間ばかりを集め、グループのトップを固めているわけではない。気にくわない人間もいるようだ。だが、適材適所を信条としている東の采配は、真下がいつも感心するほど鮮やかなものだった。もう、老人と言われている東だが、真下が会った人間の中でこれほど頭が切れる人間を見たことは未だかつてない。
 そんな東がいつも気にしているのが宇都木のことだった。東は沢山の子供をここに連れてきたが、宇都木はその中でも特殊だったからだろう。両親を責めず、世間を責めず、いつも責める対象は自分自身の男だ。
 尽くすことに喜びを感じる宇都木は二心を持たず、誰かに評価されることで己の存在を確認する。東はよく宇都木を上手く使ってやってくれ――と言っていた。宇都木のような男は、状況が上手く回っているときはいいが、一つ躓くと簡単に折れてしまう。
 今回のことで宇都木がどれだけストレスを感じているのかを、一番理解していた真下は、早めに事態を収拾してやるつもりだった。だが、宇都木の住んでいた自宅から白骨化した遺体が出た事実を変えることは出来ない。これは、宇都木自身が乗り越えないとならない問題なのだろう。
 真下はこの時点で桜庭が絡んでいることを知らなかったのだ。
 やはり宇都木をこの屋敷から出すべきではなかったのだろうか。
 如月を想う宇都木のことを知っていた。叶う恋かどうか、ひっそりと見守ってきたのだ。愛する相手ができることで、もう少し相手に寄りかかることを覚えてくれるかもしれない、そんな気持ちがあったのだ。己の弱い心や、苦しみを如月に吐露することによって癒されることもあるだろうと。
 だが、宇都木は沈黙することを選んでしまった。
「真下様。如月様がいらしてます」
 扉の向こうから正永の声が聞こえた。
「ああ、入ってもらってくれ」
 窓際から離れ、真下が振り返ると如月は驚くことに宇都木を抱いて立っていた。
「こんな時間に申し訳ありません」
 視線を反らせることなくそう告げる如月に、真下は一瞬目を見開いてみせる。
「宇都木はどうしたんだ?眠っているのか?」
「……はい。どこか横にさせるところがあればいいのですが……」
 周囲を見渡して、如月は言った。
「起こせないのかい?」
「……クスリで眠ってますので」
 クスリで眠らせるとは、一体どうなっているのか。問いただしたいことは多いが、一度に質問したところで如月を混乱させるだけだった。真下は仕事場の隣の部屋にある、自分の私室に如月を案内して、ベッドに宇都木を寝かせるように言った。
 宇都木は先日会ったときよりも顔色が悪く、泣いたことが分かるように瞼が腫れていた。シャツから覗く腕は細く、食事もまともに取っていないことが見受けられる。
「それで、何があったんだ?」
 仕事場に如月と共に戻ってきた真下は、先にソファーに腰を下ろしていつものようにポットからコーヒーをカップに注ぐと、如月の方へと差し出す。
「実をいうと話したくないのです。ですが……」
 コーヒーが入っているカップを眺めながら、如月は淡々と言った。思い悩むような表情で、顔に翳りが見られる。
「話してもらえないと、私としても宇都木は預かれないよ。もっとも、二度と帰せと邦彦が言わないと約束するのなら、話さなくてもいい」
 真下の言葉に如月はチラリと視線を向け、また俯くと淡々と話し始めた。



 真下は如月から聞かされた件について問いただすことなく、ただ「分かった」とだけ答えた。桜庭が絡んでいるとは驚くべきことだったが、それを表情に出し、如月の気持ちをかき乱したくなかったのだ。
「申し訳ありません……」
 両膝に置かれた如月の手は小刻みに震えていた。守りきれなかった己の不甲斐なさを責めているのだろう。いくら真下でもこんな如月を追いつめる気はない。
「いや。漠然としたものだったが――私は、宇都木が邦彦を愛したときから、こういう結果になるかもしれないと、恐れていたよ……」
 真下は眼鏡を正しながら、息を吐いた。
「それは……」
「宇都木は人の愛し方を知らない。だから、それ自体が宇都木を苦しめる要因になるんじゃないかと心配していた。邦彦も気付いていただろう?」
 如月は頷くこともなく、じっと何かを考えるようにカップを眺めている。
「私の方で責任を持って宇都木を預かるよ。如月は何か桜庭に仕掛ける気でいるんだろう?安心して君のやりたいようにするといい」
 真下の言葉に如月は軽く頭を下げて、早々に帰っていった。だが、真下は気付いていた。このことで如月がただ、落ち込んでいるわけではないと。
 真下はテーブルに置かれた受話器を取り、剣の携帯を鳴らした。
「私だ。今、仕事はいそがしいのは分かっているが頼まれて欲しいことがある。桜庭グループの孫が日本で暴れているらしい。すでに話がついている物件にも口を挟んできている。礼儀知らずもここまで来ると私も困るね。彼が日本で所有する資産、株や債券を操作してもいい。当面は秀幸の弟である邦彦が動くだろうが、気付かれないよう裏で手を貸してやってくれ。私としては桜庭が数年は日本に戻りたくないと心底恐怖を感じるくらい痛めつけて欲しいところだよ」
 剣は笑いもせずに『珍しく腹を立てているな』と、やや呆れた口調で言った。
「うちの可愛い元秘書がひどい目に遭わされてね」
『誰だ?』
「未来だよ……」
 その言葉に剣は冷えた口調で返してきた。
『私が動くと、桜庭の孫は再起不能になるかもしれないぞ?いや、桜庭グループの会長の方に挨拶はいいのか?』
「ああ、会長の方は私に任せてくれていい。――桜庭竜司。二度と耳にしたくない名前だ。徹底的に潰していい」
 闇の垂れ込める庭をもう一度眺めながら、目を細めた。
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