「障害回避」 第10章
如月が帰ってきたのは十一時過ぎだった。
夕飯を食べてくると先に連絡を受けていたため、宇都木は簡単に夕食を済ませていたのだが、一人きりの食事は味気なく、腹は減っているのにあまり食べることができなかった。いろいろ思い悩むこともあって、食が落ちているのだろう。
真下の言っていたとおり、夕刊に小さく例の件が載っていたのを見た。
造成中の工事現場にて白骨化した遺体が見つかる。
写真もなく、そんな小さな見出しの付いた記事だった。
骨の大きさから乳児だろうと書かれている。骨に外傷はなく、自然死だろうという話だが、今のところは詳細が不明だ。もっとも、どれほど詳しく東家の方で把握していても、圧力をかけているのだから、こういった形でしか載らないのだろう。
それを如月が読んだのかどうか、分からない。話題として持ち出す気配もない。如月と言えば、いつも通りで、別段宇都木に対して不信感を抱いている様子はなく、帰ってくるとすぐに風呂に入り、出てくるといつもそうしているように冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲む。その姿に宇都木は少しだけ安堵できた。
「新しい、秘書の香月さんはいかがですか?」
別に香月の評価など如月の口から聞きたいわけではなかったが、一番気になっていたことだ。もし自分より仕事のできる男であったら……そう考えるだけで途方に暮れそうになる。もっとも、いきなり役員の秘書に抜擢され、きちんとした引き継ぎもなかった香月がそつなくこなせているとは思えなかった。
だが、もしも……ということがあったのだ。
「そうだなあ……本人は一生懸命にやってるようだが……今のところは空回りしている状態だな。あまりにも緊張していて、それが悪い方向に向いているのだろう。仕方ないから、昼食を誘って一緒に出かけたよ」
今まで読んでいた新聞から顔を上げ、何かを思い出すように如月はキッチンテーブルの周囲に視線を彷徨わせてから、宇都木の方を向くと、くすくす笑いだした。
その様子は楽しそうだ。
別に、香月の失敗を聞きたかったわけではないが、他の人間のことを楽しげに話す如月を宇都木はあまり見たくはない。己の心が狭いと感じるのはこういうときだ。よくよく考えると自分の都合で秘書の役目を放棄しているのだから、こういった考えもよくないことなのだろう。
「香月さん、いろいろと分からないことがあると思うのですが、ご連絡を頂いたのは一度きりなんです。聞き難いことなのでしょうが、本当に分からないことがあればいつでもご連絡を頂けるように邦彦さんから申し訳ないのですが話しておいていただけますか?」
香月に直接連絡すればいいのだろうが、会社に宇都木から連絡をすること自体、避けなければならないのだ。本当は香月の携帯番号が分かればよかったのだが、本人に聞きそびれてしまったため、宇都木は如月に頼むほかなかった。
「とりあえず、自分で何とかしようとしているんだろう。そういうやる気を削いでしまうようなことは言わない方がいいだろう。本当に分からないことが出てきたら未来に連絡すると思うから心配するな。こういうことはいつの間にか何とかなっているものだしね」
ビールを数回のみ、如月は缶をテーブルに置くと、手を組んでこちらをじっと見つめてきた。何か言いたげな様子だ。
「……どうされました?」
「なあ……未来」
先程まで笑っていた如月の表情が真剣なものへと変わっている。たったそれだけのことであるのに、宇都木の心臓は急に鼓動を早めた。
何を聞かれるのだろうと、一気に不安が心を覆ったのだろう。
「はい。なんでしょうか?」
平静を装い、宇都木はにこやかな笑みを如月に向ける。
「お前のデータが会社になかった」
「え?」
「履歴から全て削除されているようなんだ。私は真下さんから未来の手をどうしても借りたいことがあるから……と、聞いていたが、これでは普通に退職した人間より悪いやり方だと思わないか?」
やや腹立たしげに如月は言う。
役員である如月は自分より下の人間のデータを見ることができるのだ。今まで如月が宇都木のデータを見たのかどうか聞いたことはなかったが、見たところで別段大した履歴は書かれていないはずだった。
「……私はその辺りを全て真下さんに任せていますので、どういった事情でそのようにされているのか分かりかねます……」
宇都木にはどう話して良いのか分からなかった。
多分、宇都木のことが明るみになった場合、会社に迷惑がかからないようにとの配慮だろう。とはいえ、そんな事情など如月には言えない。
「お前のデータがない上に、香月が未来の社員コードを使っているんだ。まるで以前からそうだったかのようにな。私は、どうにも気持ち悪くて仕方がない」
それは宇都木も初耳だった。
もっとも、宇都木のデータを消すと言うことは、宇都木の社員コードで今まで処理してきた書類が宙に浮くことになる。だから誰かがそれを引き継がなければならなかったのだろう。
「きっと、それは会計上の問題だと思いますよ」
無理に作った笑顔を顔に張り付かせたまま宇都木は言った。
「ああ、真下さんもそう言っていたよ……」
ようやく如月は宇都木から視線を外し、ビールの缶を手に取った。だが口に運ぶことなく両手で意味もなく弄んでいる。
間に流れるのは奇妙な沈黙だった。
空気が重く感じられて、いつも二人でいる心地よさは今はない。ようやく築き上げた何かにひびが入っているような感じだった。
「ご迷惑をおかけして……済みません」
沈黙に耐えられなくなった、宇都木はぽつりとそう言った。
「未来……」
「はい」
「何か隠していないか?」
ビールの缶を眺めていた如月の視線がチラリとこちらに向いた。
「いいえ」
「真下さんはああいったが、私には信じられないんだよ……」
ふいっと視線を逸らせて、如月は頬杖をついた。
何か、如月は疑惑を抱いているのだろうか?そう考えると、宇都木はヒヤリとしたものが背筋を撫でるのが分かった。
「どういったことが信じられないのでしょうか?」
声が震えそうなのを必死に堪えて、宇都木は平静を保つ。これ以上、如月に不信感を抱かれたくなかったのだ。
「真下さんは、未来を私から取り上げようとしているんじゃないかと思って不安なんだよ。いや、もちろん、真下さんがそういったことを仄めかしたわけではないんだが、それでも今未来は東家の仕事を手伝っていて、しかもうちの会社には関わっていなかったということになっている。先週まで私の秘書だったのにだ。どう考えても、お前を取り戻したいと考えているようにしか私には思えない……」
ムッとしたように如月は眉間に皺を寄せていた。
なんだ……。
そういうことだったのですね。
宇都木は如月が不機嫌な理由をようやく知って、逆に嬉しくなった。如月は単に真下が宇都木を東家に戻そうとしていてこういう行動に出ているのだと勘違いしているのだ。それは、如月にとって宇都木が大切であると言っているのと同じで、宇都木からすると嬉しい勘違いだった。
「それはありません。絶対にありませんから、ご心配は不要です。もし、真下さんが本気で私をもう一度東家の秘書にしようと考えていらっしゃるのなら、私はここにはいられなかったでしょう。いいえ、違います。私が拒否するようなことを東様も強制など絶対にされません。私がお手伝いするのは、本当に少しの間だけなんです」
作り笑いではなく、本心からの笑顔を浮かべると、如月は向かいに座っている宇都木の側にやってきて、ギュウッと身体を抱きしめてきた。もちろん、宇都木も自ら手を伸ばす。がっちりした背の筋肉が、宇都木の手に感じられ、それだけで安心できる。
「邦彦さん……」
「未来は私だけの未来だ」
「ええ……」
幸福に身を委ねているはずなのに、それは長続きしないという不安が未来の心に深い影を落としていた。